硝子のジョニー編 4

「撮影現場はけっこうな人だかり。物珍しさもあって、野次馬が大勢集まっていた」
 函館市内で競輪専門新聞「オール競輪」を発行するオール競輪新聞社社長のT・Nさん(66)は、1962年の日活映画「硝子のジョニー 野獣のように見えて」の撮影当時は20歳だった。初代経営者で父の故・Sさんを手伝い、ガリ版で刷った新聞を場内で販売している最中に、市営函館競輪場(函館市金堀町)での撮影を見学した。
 小林旭主演の「渡り鳥シリーズ」など日活映画のファンだったTさん。人混みをかき分け、宍戸錠さんに思い切って声を掛けた。
 「競輪にはよく来るのかい」すると、宍戸さんは答えた。「(東京都の)調布の撮影所から競輪場は近いからね」

image

競輪選手、新聞発行人として函館競輪場とともに歩んできたTさん。「ぜひもう一度観てみたい」と話している。

image
函館競輪場での撮影風景

「話せただけでうれしかった」。Tさんは当時の興奮ぶりを語る。封切り後は早速、友人を連れて市内の函館日活劇場で鑑賞。普段働く競輪場や市内の各所がスクリーンに映し出されるたび、わくわくしたことを覚えている。
 
 撮影の翌年、Tさんは都内の競輪学校の入学。プロの競輪選手としての道を歩み始める。新聞販売の手伝いの傍ら、当時現役選手だった𠮷村昭次郎さんを師と仰ぎ、函館から長万部町までの片道約100キロ以上を自転車で往復するなど、長距離訓練を重ねていた。「大学進学よりも自分の力で稼ぐ選手に魅力を感じた」と当時の心境を振り返る。
 3ヵ月の学校生活学校生活を経て、Tさんは引退する40歳までの19年間、北海道所属の競輪選手として全国各地をめぐり、約500レースを走り抜けた。東京では、小林旭や赤木圭一郎などの日活スターを見ようと、仕事の合間を縫って撮影所を訪れたという。

 T・Nさん  ファンの声援を背に疾走

 最も思い出に残る試合は30歳のころ、都内後楽園競輪場でのあるレース。通常、1レースにつき出場選手は9人だが、後楽園は12人。その分駆け引きは難しいのだが、この日は作戦がうまくいき見事に優勝した。観客の歓声に身が震えた。
 「選手には勝てば歓声、負けたら罵声(ばせい)が掛けられた。当時は今より観覧席が接近していて客との距離も近かった」。観客の熱狂ぶりと同じように、レースも激烈を極めた。激しいぶつかり合いから落車も多く、Tさんも鎖骨骨折などのけがを負った。今でも体には5ヵ所の傷跡が残っている。
 現在は、同じく元競輪選手で、同新聞社専務の弟・Mさん(58)とともに新聞発行を通じ、また、選手OBとしても函館の競輪事業を支えている。「(硝子のジョニーは)凄く懐かしい。今の競輪場で上映すれば良いファンサービスになるはず」と笑顔を見せた。

《管理人のコメント》
日活映画ファンの方だったようで、錠さんとお話されたっていいですね。私もあわよくば、お話できるチャンスがあったのですが私の都合でできなかった記憶があります。お会いしていたら、いい思い出になったのでしょうが今や叶いませんね。でも、様々な映画の中で宍戸錠さんは素敵です。

2008年1月13日 函館新聞 掲載

「函館新聞」新目七恵 様に感謝致します。