硝子のジョニー編3

「おれ映った!」「あ、あの子だ!」
 1962年、八雲町黒岩の映画館は、日活映画「硝子のジョニー 野獣のように見えて」の上映に詰めかけた200人余の地域住民で超満員になった。そこは、スクリーンを食い入るように見つめる子供や大人たちの熱気に包まれていた。
 同町に住むT・K さん(73)ら黒岩町内会(S・T会長)の会員4人は、町内での撮影風景や封切りの時の様子を今でも鮮明に覚えている。

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芦川さんらが撮影を行ったという黒岩海岸の浜辺で、「映画撮影は、当時の黒岩の大きな話題になった」と振り返るOさん、Tさん、Mさん、S会長、Fさん

硝子のジョニー 野獣のように見えて

 M・Hさん(83)は「(撮影のため)海に入ってずぶ濡れになった芦川いづみさんが、トイレを借りに商店を訪れたことが話題になった」と話し、「黒岩駅での撮影は人だかりができ、子供たちはカメラに映らないように、隠れて見ていた」と振り返る。F・Sさん(61)「撮影時は風が冷たくて寒かったはず。休憩中、車の中で震えながらトウキビを食べる宍戸錠さんを見かけたよ」とし、「弟が錠さんの腕にしがみついたんだ」と笑う。思い出は尽きない。

 TさんとMさん、Fさん、さらにO・Sさん(73)の4人は生まれも育ちも黒岩で、撮影当時は黒岩郵便局に勤務していた同僚。それぞれ、郵便配達の仕事中に見掛けたり、自宅から撮影現場を眺めたりした記憶が、色あせずに残っている。

 昭和30年代の黒岩地域は、国内有数の砂鉄採掘業やスケトウダラ、イワシなどの漁業で盛況をきわめた。他地域から出稼ぎに来る砂鉄の採取人や漁業者にとっても、映画は唯一の娯楽。そして、仕事帰りにデートや仲間と立ち寄る息抜きの場所だった。黒岩にも2つの劇場があり、連日にぎわったという。
 そんな時代、映画の撮影は黒岩地域の住民にとって「一生に1度あるかないか」の“大事件”だった。撮影は数日にわたり、噂(うわさ)が広まって見物人も増えた。

八雲町黒岩の住民  当時のにぎわい 胸に去来

 「『硝子のジョニー』の封切りは人で人ですごかった。なにせ近所の子が参加したり、黒岩がスクリーンに登場したんだからね」とTさん。映画が始まると、ござやむしろに座った観客から「ワー」という声が上がった。
 Tさんは当時の黒岩中学校卒業後、同郵便局に就職。配達中に吹雪で山中の道に迷ったり、訪問先で犬に足をかまれたり、さまざまな出来事があったが、他の仲間と同様に約40年間勤め上げた。

 現在、黒岩に当時のような人のにぎわいはない。海外からの鉄鉱石輸入の影響で52年を最後に砂鉄採取事業は廃止。時代の流れで劇場はなくなり、一時、1クラス40人を超えた黒岩小学校の全校生徒は今、わずか11人に。
 「昔は大人も子供も多く、若い人も自然と集まる地域だった…」。4人の表情が少し寂しげに見えた。

《管理人のコメント》
映画撮影に町の人々が参加して町が盛り上がるって、良い時代だったのですね。地方の小さな町で突然起こった出来事は「夢のひととき」だったかも知れません。この記事が掲載された日からもかなりの時間が経過していますから、現在の町の状況はコロナの影響も受けおしはかるべきもないです。でも、「夢の記憶」は風化してないですね。

2008年1月12日 函館新聞 掲載

「函館新聞」新目七恵 様に感謝致します。