以下は、いつも「赤い夕陽の掲示板」を訪れて下さる亂筆さんのご厚意により、台湾のサイトで紹介されていた小林旭さんの当地でのかつての人気を表した内容を翻訳提供して戴きました。感謝!(管理人:渡三郎)

 台湾の南端高雄県北部にある山あいの街・旗山を紹介しているサイトのなかに、「旗山五十年代娯楽雑談篇」というページがあって、そのなかで「小林旭」はどのように紹介されているのか?

 五十年代(注:文脈から判断して中華民国五十年代。西暦では1960年代に相当)以前、南部地区にテレビがなかった頃、旗山の住民は一日働いたあとどんなふうに夜の時間を楽しんでいたのだろう? まず第一は家でラジオを聴くこと、それから中庭で楽器を弾いたり歌を唱ったり、そして最も人を惹きつけたのは街で映画を観ることだった。
 当時旗山地域にはふたつの映画館があった。ひとつは中山路あたりにあった「旗山大戯院」、ひとつは旗楠一路の「仙堂戯院」。「旗山大戯院」は日本統治時代に建てられた。内部は何度も改装され映写や音響設備は近隣最高級の映画館だった。かかる映画は「国語片」(注:中国映画。ここでいう「国語」とは北京官話=標準語のこと)、「西洋片」(注:欧米映画)、「日本影片」(注:日本映画)が主だった。かたや「仙堂戯院」は台湾復興後に建てられ、かかる映画は「台語片」(注:「国語片」に対して台湾語の映画を指す)で「歌仔戯」、「布袋戯」、「新劇」(注:なんでしょうね、私も知りません。ローカルな地方劇か?)などがときおりかかった。
  五十年代以前は日本映画が最も流行した時期だったことを思い出す。あの頃、日本映画の人気者は黒澤明、三船敏郎、小林旭、石原裕次郎、美空ひばり、浅丘ルリ子(注:原文は「美空雲雀」に「浅丘留璃子」。当然漢字表記)などなど。しかし若者たちは観ても日本語がわからないし当然字幕もなかった。しかし人工翻訳=弁士(注:弁士がいたというところが戦前の日本統治時代を彷彿とさせる)がいたのでだいじょうぶ。弁士は劇場で映画の情感をゆたかに解説し、ときには練達の話芸を駆使して映画ファンに最も愛された。日本映画で最も人気のあったのは三船敏郎の時代劇、【宮本武蔵】【宮本武蔵決鬨】(注:【続宮本武蔵;一乗寺の決闘】のことか?)などがかかると劇場は客で溢れんばかりだった。小林旭、美空ひばり、浅丘ルリ子らが共演したメロドラマも若い男女に絶大な人気だった。その頃青春を送っていた私も、同じ映画を三回も観ては小遣いを使い果たしていたものだ(以下略)。


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