アメリカ旅行記

ディズニーランド

 1961年(昭和36年)12月31日の大晦日に小林旭さんは「コロムビア歌謡ショー」(歌舞伎座)の舞台を終えて、その足で羽田空港(当時は、ここが国際空港)からアメリカへ向けて飛び立ちました。時刻は12月31日午後11時59分(当時は騒音規制などがなく、遅くまで出発便がありました)あと1分で年が変わるという時間です。まさに分刻みの忙しさなのです。

 旭さんはファーストクラスでゆったりとウィスキーを傾けながら空の人となりました。ちなみに当時の航空料金は東京-ホノルル-ハワイの往復料金はファーストクラスが45万3千600円。ツーリストクラスで28万1千900円です。アメリカ本土までならもっと必要ですね。

 飛行機は給油のためにホノルル空港に到着。日付変更線を越えたので現地時間は12月31日の午前11時。一旦、年を越えて、また旧年に逆戻り。旭さんのカレンダー付腕時計は日本時間だったために1日の日付になっているのを手動で針をまわすこと720回。20分近くかかったとか。

 当時のハワイには4軒の邦画劇場があり、休日はほとんど満員状態だったようです。東映系劇場には、北大路欣也さん、松方弘樹さん、東千代之介さんがあいさつに来ていたそうです。

ラスベガス
     
ハリウッド

 給油を終えた飛行機は、一路ロサンゼルスをめざす。やがて、きらびやかなロスの夜景が近づいてきた。映画の都ハリウッドへの期待が高まる。ロスの空港へ到着したのは31日午後10時。まさに、ニューイヤー・イブのまっただ中。宿泊はアンバサダー・ホテル。

 翌昼過ぎに街へ出ると、東洋劇場には『高原児』がかかっている。東洋劇場では舞台挨拶(前回参照)。そして、レコード屋をのぞくと『北帰行』は売り切れ。

 ディズニー・ランドに出かけた旭さんは入場料が半額。「子供と間違えられたかな」と笑っていると、その日は特別割引の日でした。エア・カーにのったり、赤いクルマでお化け屋敷に入ったり、半日たっぷりと愉しんだ旭さん。

ラスベガス
ハリウッド

ハリウッドは、MGMの撮影所に行きました。75万平方メートル(約20万坪)日活撮影所の約5倍。28ステージ。この広さにびっくり。でも、セットの中の設備は「ウチと、変わんねえよ」と旭さん。

 スタジオの食堂では『ガール・ハント』の女優ポーラ・プランティスに誘われて共に食事。旭さんはポーラの食欲にびっくり。

 舗道に敷き詰められた有名スターや監督のサインを彫り込んだスターマーク、チャイニーズシアター前の手型や足型を見て旭さんは「いっそ、オレなら尻もちついて、ケツ型をとっちゃうんだけどな」とゴキゲン。

(この項目、終了・つづく)

ラスベガス
資料:明星 3月増刊 「オール小林旭」1962年2月発行
 

 

ハリウッドプロデューサーからの映画出演話

上の写真のハリウッドのプロデューサー、ジョー・パスタナックからハリウッド映画に出演依頼があったと旭さんは後に語られています。

2002年8月8日号「アサヒ芸能」の『天才テリー伊藤「毒入り注意!』NO.272の対談に掲載。
"将軍お預かりの刀をオヤジがアメリカに運んだんだけど行方不明になっちゃって、それを日本から捜しに来た"ということから始まって、チャンバラ映画をとると。で、その絵を見たら笑っちゃったんだけど、たすきがけに刀をぶら下げて、黒ずくめで、怪傑ゾロみたいな帽子をかぶってるんですよ。相手が銃を構えるよりも早く手裏剣を投げるんだそうです(笑)

共演にロバート・フラー(TV西部劇「ララミー牧場」に出演し人気を博す)をつけるから西部劇をやってくれって頼まれたそうです。
ジョン・ウェインも「渡り鳥」にあこがれていたそうです。やっぱり、カッコいいですからね。

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帰ってきた渡り鳥