"アキラの歌声"が聞こえる夕暮れ

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「北帰行」 歌が大ヒットし、やがて映画もシリーズ最終作となった
窓は夜露に濡れてレコードが発売された当時は、聴かない日がなかったほどにあらゆる場所で「北帰行」の歌は流れていた。しかも、競作がある中で小林旭の歌のみが流れていた。レコードの発売は、昭和36年(1961)10月5日、この歌が主題歌となった『渡り鳥北へ帰る』は翌年、昭和37年(1962)1月3日公開。レコード発売前にラジオなどや映画館などでキャンペーン用に流された歌は、瞬く間に評判となった。日活も他の正月作品を含めて宣伝用にソノシートを映画館に配布した。このように大ヒットした「北帰行」は、どのような経緯で生まれたのだろう?オリジナル楽曲についての考察は別に譲り(少しは触れていますが)、ここでは小林旭の「北帰行」の誕生秘話について紹介しましょう。
「うたごえ喫茶」から生まれた名曲昭和36年当時の「うたごえ喫茶」は、大ブームだったのかも知れない(※管理人は知らないので)。後のGS(グループサウンズ)ブームの前までは、全国の街にあったのではないかと想像する。こうした「うたごえ喫茶」から出てきた名曲に「北上夜曲」があった。同じ年に、週刊誌「サンデー毎日」に紹介されてから全国的に大ヒットした。こうした背景を受けて、当時のコロムビアレコードのディレクターである馬淵玄三氏は、店で人気のある曲の中から『旅の唄』と『惜別の歌』を選び出した。馬淵氏は二曲のレコーディングを急いだ。こうした曲の作詞・作曲はレコード会社専属ではないために(当時は専属制)権利問題が発生する。レコーディング中に『惜別の歌』の作詞・作曲者は判明したものの『旅の唄』は不明のままとした。7月末には編曲があがり、後は吹き込みのみとなった頃。7月31日にキングレコードから、ボニー・ジャックスが歌う『北帰行(旅の唄)』が発売された。これは、新宿のうたごえ喫茶「灯」で、よく愛唱される歌ベスト10として制作されたアルバムの中の1曲だった。このアルバムのプロモーション用として『北帰行(旅の唄)』がシングルカットされたものだった。先を越された馬淵氏は、ジダンダ(地団太)を踏んだ。《よし、こっちは、歌い手で勝負だ。旭の声には、男の哀愁と、心のあたたかさを感じさせるものがある。決して負けはしない・・・》吹き込みは、8月27日に予定されていた。ボニー・ジャックス盤は、じりじりと売れ行きを伸ばして行く。ある営業マンは驚異を感じた。しかし突然、ボニー・ジャックス盤は、発売中止の仮処分を受けた。理由は著作権侵害であった。作者が名乗り出たのだ。作詞・作曲者はTBSの編成局長宇田博であった。
作詞・作曲者の登場『旅の唄』は、昭和16年に宇田氏が『北帰行』のタイトルで作詞・作曲したものだ。『北帰行』は、宇田氏が旅順の高校生活に失望し、旅順の北方500キロ先にある自宅に帰る夜汽車の中で生まれた歌と言われている。(かつて、NHKでも『北帰行』として放送されたことがある)『北帰行』は、長野県の松本高校で『山の唄』として歌われてもいた。また、大阪のあるボート部がクラブ歌として歌っていたこともある。馬淵氏は、世田谷の自宅に宇田氏を訪ねた。改めて正式にレコード化の許可をもらい、元歌の五番まである歌詞を三番までに改作してもらった。レコーディングは予定通り8月26日に行われた。旭の独特な高音と、小細工を入れないストレートな歌い方は、かえって作品の持つ哀愁感を浮き出させた。事実、宇田氏は自分の思いにぴったりの歌い手として小林旭が歌う歌をテープに録って残していた(NHK番組より)。『北帰行』は40人以上の歌手による競作盤がある。その中で、一番の売れ行きは小林旭の歌う『北帰行』である。参考資料:週刊大衆 1994年3月21日号「日本歌謡ドキュメント 夢歌・恋歌・心歌」大下英治より