友あり遠方より来る、また楽しからずやという有名な言葉があります。友だち仲間は、嬉しいことにつけ、悲しいことにつけ、本当に素晴らしいものです。よく孤独を愛すなどと、いいますが、これは一人でも自分の腹を割って話のできる友だちがいるからです。独りぼっちでなんか生きていけないと思います。
ボクにも仲間がいます。まず第一に最近結成されたハワイアン・バンド“エル・ブラザーズ”で、みんな愉快な気ごころの知り合ったもの同士だ。宍戸錠さん、杉山俊夫くん、二谷英明さん、藤村有弘さん、郷えい治くん、待田京介さん、それに助監督の柳瀬観さんと杉山くんの弟元(はじめ)くんと、合わせて九人のメンバーです。
この楽団は、将来海外に演奏旅行に出かけようと、大きな夢を持っていますが、何しろ連中忙しい身体ですから、全員が集まって練習したり、話し合いをしたりすることができません。でも、三、四人とヒマさえあれば集まって、談論風発(チョッと大げさですけど)して大変な騒ぎになります。
こうして友だち同士が集まって、何もかもかも忘れる時が、ボクにとって青春の歓喜を一番感じる瞬間です。
ところで、友だちにもいろいろあるようで、あまりズケズケもののいえない人、利害関係で結ばれた友だち、こんな友だちだけは余り有り難くありません。悪友とよびあえる友だちの方が、本当に心の通いあった仲といえるのではないでしょうか。
ボクには、そういった意味での悪友がいます。さっきもお話した“エル・ブラザーズ”のメンバーもそうです。
日活に入って最初にボクが得た友だちは、杉山俊夫くん。彼はもと山下敬二郎さんといっしょにロカビリアンとして活躍していたことがありました。彼が、映画界に新天地を求めて入ってきたのです。それにくらべてボクは、なんとなく映画界へ入ってしまったという、彼とはおよそ対照的。それがボクたちを仲良くしてくれた原因だったようです。
ここまでの話を読んでもトニイは、仲間と遊んでいる時の方が楽しい一青年としての気持ちが素直に顕れていますね。しかし、この時期に日活での「部活」とでもいうのでしょうか、バンドが組まれていたというのが楽しいですね。そのメンバーも凄いです。まさか、錠さんまでがバンドメンバーだったなんて信じられません。それもそのはず、めったに練習はしないようですね(笑)。それにしても、将来は海外演奏にまで行くという夢もでっかい。このあたりは錠さんからの発言でしょうか?一度、演奏を聴いてみたかったような気がします。このメンバーでの楽器パートを想像してみるのも楽しいかも知れませんよ。やはり、赤木さんはトランペットでしょうか?しかし、ジョーさんが吹くのはホラくらいなもの?(失礼しました) では、つづきをどうぞ・・・
●真面目な悪党●
杉山くんのジャズの話はとてもとても愉快で、勉強になりました。また真面目で、サッパリとした性格を知って、ますます仲のいい友だちになりました。
その頃、ボクは横浜の姉の家から撮影所に通っていたのですが、朝早い仕事や夜の遅い仕事でボクは、とうとう杉山くんといっしよに都内に下宿を探し、丁度笹塚に手頃な下宿があったので、二人は隣り合わせの部屋に住むことになりました。それからしばらくの間、下宿がいっしょでしたが、やがて今住んでいる国領の山崎撮影所長のお宅に仲良く引っ越したわけです。
話がふたたびバンドのことになりますが、音楽的な才能を持ち、経験も豊富な杉山くんは、バンド結成について大変なハリキリようでした。彼はボクのウクレレの先生で、おかげで腕前もメキメキ上達。休みの時は一日中、歌ったり、弾いたりしていることもあるのです。
ボクの友だちは、殆んど日活の俳優さんで、宍戸さんとは、ボクの主演作品だった「抜き射ちの竜」ではじめて共演しました。撮影が終わる頃にはすっかり意気投合してしまいました。
お互いに運動しないと気分がサッパリしないたちで、ことにボクは運動不足になると顔にムクミが来るほどでした。それで夏ごろは錠さんと、よく泳ぎにでかけました。
ボクは、湘南の海に育ったので、水泳がスポーツの中で一番得意なのに、錠さんのダイナミックフォームにタジタジになってしまいました。
いまや錠さんは、殺し屋スタアのナンバーワンです。殺し屋なんていうとコワイみたいですけど、ふだんは虫も殺さない素晴らしい男です。
ボクと錠さんはともにボクシングの大ファン 。好カードがあると二人でリングサイドへすっとんでいってしまいます。
レオ・エスピノサと山口鉄弥との試合の時にピンチに追い込まれた山口にゲキをとばしたり、相手のエスピノサに大声で「倒レオ!(倒れろ)」とヤジったりして、場内をわかせていました。このヤジは、その時の観客の気持ちにピッタリでした。なにかこんなところにも、錠さんの魅力があると思いました。
●裕ちゃんはボクの兄貴●
「ヨー、悪党。どうだい近頃はー」とよくボクは裕ちゃんに声をかけられます。裕ちゃんはボクにとって友人以上の人で、ボクが映画界に入ってまだ日が浅い頃、裕ちゃんはいろいろ教えてくれました。
横浜から通っている頃「遠いからオレンチから通えよ」と気軽にいってくれました。ボクは、その言葉に甘えてしばらく成城の裕ちゃん宅から、撮影所通いをしたことがあります。
そのときの楽しい毎日は、忘れることができません。いっしょに撮影所に通い、帰ると、夜おそくまでジャズを聞いたり、酒をのんだりして楽しく語り合ったものです。いまでも裕ちゃんは、どんなことでも相談にのってくれます。ボクも気兼ねなく腹の中のものを吐き出すことができるのです。
だから、ボクにとって裕ちゃんはアニキも同然…。ボクは素晴らしい先輩や友達を持って幸福です。
いまこの人たちがいなくなったら、ボクはたちまち憂うつになり、働く意欲を失ってしまうでしょう。友だちのいない生活なんて、本当に考えることすらできません。ボクの青春に喜びを与えてくれる友だちです。
みんな集まったときは、何もかも忘れて、人生を楽しむ時間なのです。これからの世代に生きて行くボクにとっては、決して離れてはいけない大切な友だちばかりなのです。
昭和36年 新年増刊号「明星」より
以上で赤木さんの話は終わっています。これが書かれた、あるいはインタビューは昭和35年の秋頃でしょう。まさに人気の絶頂期にあったころです。このページには当時、住んでいた住所まで掲載されています。今では考えられないことですね。杉山俊夫さんと現在も同じ下宿であることが添えられた写真のカットのコメントにあります。思えば、この頃が赤木さんにとっても一番楽しい頃だったのかも知れません。そうしたことが、この仲間のことを話されている中ににじみ出ています。管理人がくだらない補足をしておりますが、著作権のことがありオリジナルな文章も加えないといけないことからの処置ですのでご了承下さい。
赤木さんの素晴らしいキャラクターを改めて、スクリーンやビデオ、DVDなどでたどりたいと思います。 2004年2月17日 UP