アキラの兵隊ソング

01. 軍隊のぞき節
02. 蒙彊ぶし
03. 陸軍小唄
04. ハート・ソング
05. スンドコ節(海軍小唄)
06. ホロンバイル小唄
07. 軍港小唄
08. ダンチョネ節
09. 可愛いスーチャン
10. ラバウル小唄
11. 馬賊の唄
12. 男なら
13. 巡航節
14. 特攻節

    • 1971年 8月 リリース
    • オリジナルアルバム LP仕様 発売:日本クラウン株式会社 

    • 2005年 8月31日発売
    • 紙ジャケット CD 仕様  発売:PICTUS

    • 監修・解説 八巻明彦

    • 1971年6月29日録音

<何故、今「アキラの兵隊ソング」なのか?>
 あくまでも個人の想いなのですが、私自身齢70年を経て(実質71年になろうとしています)今の日本の風潮が余りにも欲得や個人的価値観のみで流されているような気がして、日本人として大事な何かが失われているような気がするのです。今あるのは、過去からの流れがあってこそです。「過去・現在・未来」すべては繋がっているものです。
 それらを踏まえて、ふと我が身を振り返った時、確かに自分自身が若かった頃は傍若無人で自分自身が全てというような浅はかさに溢れていました。また、子供時代に大東亜戦争のテレビ番組や映画を観て、カッコいいなというくらいのもので涙なんて無関係なものでした。
 ところが、様々な場所に行き戦時の悲惨さ、悔しさ、無念さを知った頃から歴史の重みを感じ、今あるのは沢山の方々の犠牲の上に成り立っていることを知らされたのです。
 そうした中で「アキラの兵隊ソング」聴いて、それが歌われた背景などを知りたくなりました。かつての亡くなられた兵隊さん達に感謝を込めて捧げます。あくまでもネット関連や書籍等での資料調べとなりますから確かな裏付けとはならないかも知れませんが進めたいと思います。
 
 ※資料調べに時間を要すると思うので少しずつの更新となります。
  各歌詞の右側に《管理人の知ったかぶり》として随時掲載致します。

<アルバム解説より一部抜粋>

 兵隊は、指揮官の命のまま、前進し、射撃し、突撃して行ったのです。いってみれば将棋の駒であり、鉄の軍紀の下にあって、自由自在に操られるのが兵隊でした。もっとも、兵の間にも階級があり、ささやかながら、その階級に応じて"自由”がありました。ほんのちょっぴりの自由の中で、兵隊たちは自分たちで歌を作り、そして歌いまくったのです。
 兵隊の喜びと悲しみとは、生きるか死ぬかを主たる目的とした軍隊の中で、一種の野放図ささえ伴った、独特の感覚で表現されてきました。もちろん、替え歌もたくさんあります。そうした中で兵隊たちは自分たちの歌をうたい上げたのです。
 小林旭の、ややニヒリスティックなマスクと、ひなびた歌声、その節回しのなかに"兵隊ソング”の持つ味がピッタリと生かされました。本当の意味で大衆の歌を歌う小林旭は、この生き死にのさ中で、なおも今日の日の生きる喜びを歌った"兵隊ソング”を歌いこなしてのけました。


※八巻明彦氏のアルバム解説より一部抜粋しました。

01. 軍隊のぞき節

1.一番電車に 乗りおくれ
 二番電車が 満員で
 三番電車が 車庫入りで
 四番電車に 飛び乗って
 着いたところが 新開地

2.顔をのぞかせ 格子戸で
 おいでおいでと 招き猫
 酒にビールに 落花生
 唾をごくりと のみ込めば
 やり手婆あが 肩たたく

3.週に一度の 外出が
 若いいのちの 洗濯日
 気兼ねいらずの 四畳半
 さしつさされつ さし向かい
 あとは突撃 あるばかり

4.若い二人を 憎らしや
 時計の針が 急き立てる
 点呼に遅れりゃ 重営倉
 別れのキスも そこそこに
 くぐる営門 二分前

下条ひでと・補作詩/作曲者不詳/春見俊介・編曲


<解説> 
 週に1度の外出が、若い兵隊にとっては最大の楽しみ。”食う住むところ 寝るところ”は完全に確保されているとはいえ、軍隊にあっては ”籠の鳥”であることには間違いありません。まして20代になったばかりの、しかも身体強健の壮丁たちのこと。
 青春のはけ口を求めて、外出日の楽しみは、やはり酒と女の待つところでした。のぞきからくり風のメロディーで歌われたたなかに、彼らヤング兵士の気持ちが活用されています。あとは”突撃”あるばかり。もちろん”突撃一番”の装着を怠ることは許されませんでした。

※注:今や「突撃一番」は死語ですね、私も解説を読んでさらっと流してましたが、ふと気づいて吹き出しそうになりました。突撃一番とは、コンドームのことですね。避妊より性病予防を優先させたのでしょうか?ちなみに陸軍が「突撃一番」、海軍は「鉄兜」だったようです。使用感は良くなかったとか。

《管理人の知ったかぶり》
 この唄のルーツは、お座敷芸の伝承歌「覗き(八百屋お七)」です。元歌の歌詞は一部はそのままですが、内容はお座敷遊びの男女の駆け引きを思わせる濃厚な内容です。興味のある方は「上方座敷歌の研究」で検索して下さい。音声動画もあるのでオリジナル歌を聴くこともできます。
 それ以前には、大道芸のひとつである「のぞきからくり」の当たり演目である「八百屋お七」の口上がそれにあたり、お座敷芸(遊び)として残ったものと思われる。

 個人的な思い出としては高校時代に放課後のお楽しみとして、男女共学校ではあったが女子をしばし教室から追い出し、男子のみを集めて私が教壇に立ち、クラスの男子全員で軍歌や猥歌を歌った状況が甦ります。この「軍隊のぞき節」の替え歌が手拍子入りで一番盛り上がった。その騒ぎを聞きつけて、教師が飛んできて叱られた。長くは続かなかったけど、みんな必死になって歌ってた。楽しかった思い出の一コマ。

02. 蒙彊ぶし

1.おれが死んだら 三途の川でヨー
 鬼をあつめて 相撲とるヨー

2.椰子の葉陰で 昼寝をすればヨー
 ワニが出てきて キスをするヨー

3.中尉中尉と 威張るな中尉ヨー
 中尉少尉の なれの果てヨー

4.どうせやるなら でっかいことなされヨー
 世界質において 飲みたおせヨー

5. おれが死んだら 靖国神社へヨー
 花の咲くころ 会いに来いヨー


作詩者不詳/作曲者不詳/春見俊介・編曲


<解説>
別名「世界統一」陸士関係者の間では「八紘一宇」と呼ばれていました。これも民謡風の旋律で、親しみやすい歌です。”ワニが出て来て・・・”という歌詞の系列が「世界統一」に属するもので”ギャング絶えたるシカゴの街・・・”とか”キリの晴れたるロンドン塔でヨー・・・”などと、世界各国をわがものにしようとした、当時としては気宇壮大な内容でした。しかし、”中尉々々と威張るな中尉・・・”あたりの歌詞は”ヤットコ大尉”(やっとこすっとも大尉どまり)という言葉さえあった軍縮時代の名残りを示したもののようです。これだけ歌の中にも、歴史が刻み込まれているのです。

《管理人の知ったかぶり》
「蒙彊ぶし」の「蒙彊(もうきょう)」とは何処でしょう? 1937年、内蒙古(南モンゴル)に設立された「蒙古聯合自治政府」の地域を指す。1935年から急速に展開された日本の蒙彊進出の目的は第一に、外蒙・ソ連方面からの赤化防止であり、仮想敵国であるソ連との戦争に備えた軍事的基盤の整備であった。そうした中で民族政策の必要性に直面。特に力が入れられた分野が教育、衛生、宗教であった。

03. 陸軍小唄

1.嫌じゃありませんか軍隊は
 金の茶碗に竹の箸
 仏様でもあるまいし
 一ぜんめしとは情けなや

2.腰の軍刀にすがりつき
 連れて行きゃんせどこまでも
 連れて行くのはやすけれど
 女は乗せない戦車隊

3.女乗せない戦車なら
 みどりの黒髪断ち切って
 男姿に身をやつし
 ついて行きますどこまでも
 
4.大佐、中佐、少佐老いぼれで
 というて大尉にゃ妻があり
 若い少尉さんにゃ金がない
 女泣かせの中尉どの


作詩者不詳/作曲者不詳/春見俊介・編曲


<解説>
 ご存知「ほんとにほんとにご苦労ね」(昭和14年・山中みゆき-初代-)の替え歌です。替え歌は、兵隊ソングの得意とするところですが、この「陸軍小唄」などはさしずめ替え歌ナンバー・ワンといっていいでしょう。特に1番の歌詞はメンコ(金属製のお椀)に盛り切り飯、一汁一菜の兵退食を仏壇用のお供えに見たて、やがて来るべき戦闘に生死をかけねばならぬ兵隊の溜め息が生々しく息づいています。おそらく支那事変中(昭和16年まで)に作られたと思われる兵隊ソングの代表作です。


《管理人の知ったかぶり》
別名「軍隊小唄」ともいいます。様々な歌手が歌われていて、有名なのはドリフターズの『ドリフのほんとにほんとにご苦労さん』や”三島敏夫とそのグループ”の「軍隊小唄」など、歌詞はそれぞれ微妙に違います。
 この「陸軍小唄」も高校時代の放課後の集まりで歌った替え歌のひとつ。その替え歌も近所の大人や部活の先輩たちから教わったもの。内容は男なら思わず吹き出すような的を射た歌詞の隈歌ではありました。「♪アタマツンツルテンで 目がひとつ 粋なハチマキちょいと締めて・・・」未だに憶えてる。

04. ハートソング

1.わたしのスーちゃん福知山
 二十連隊初年兵

2.焦がるる私も福知山

 高等女学校の四年生

3.晴れて添う日を楽しみに
 辛抱しましょう ねぇあなた
 
4.昼はきびしき教練や

 夜は夜で眠れぬ寝ずの番

5.これもみ国のためならば
 僕も笑って勤めます

6.ご無事にお帰りその時は
 新婚旅行の汽車を待つ

渋谷白涙作詩/小島白露・採譜/春見俊介・編曲

<解説>
 これは明治時代の歌でハ小節からなる"兵隊ソング"の典型ともいうべきものです。歩兵第20連隊のあった福知山を舞台に、高等女学校4年生(現在の高校2年生にあたります)というインテリ女性を配し、相思相愛の心を歌ったもの。間の手を適当に入れ、興到れば想像の翼を伸ばして歌いついでいくといった、兵隊たちの束の間の楽しみ、ささやかな憧れがこめられています。

05. ズンドコ節(海軍小唄)

1.汽車の窓から手をにぎり
 送ってくれた人よりも
 ホームの陰で泣いていた
 可愛いあの娘が忘られぬ
  トコ ズンドコ ズトトコ

2.花は桜木人は武士
 語ってくれた人よりも
 港のすみでで泣いていた
 可愛いあの娘が目に浮かぶ
  トコ ズンドコ ズトトコ

3.元気でいるかと言う便り
 送ってくれた人よりも
 涙のにじむ筆のあと
 いとしあの娘が忘られぬ
  トコ ズンドコ ズトトコ

4.汽車の窓から手をにぎり
 送ってくれた人よりも
 ホームの陰で泣いていた
 可愛いあの娘が忘られぬ
 トコ ズンドコ ズトトコ


作詩者不詳/作曲者不詳/安藤実親・編曲

<解説>
 「陸軍小唄」に匹敵する兵隊ソングのヒット曲のひとつ。「海軍小唄」の原作がはっきりしたものに対し、こちらは作者不詳の本当の意味での"兵隊ソング"です。小林旭としては「ダンチョネ節」に引き続き35年の夏にヒットさせていますが、両曲とも現代風に書き直されたもの。作者不詳のもとの姿で歌ってみると、本当に兵隊ソングが小林旭によく似合うことがわかります。

06. ホロンバイル小唄

1.夕べ風吹く 海拉爾の
 楊柳芽をふく イルム川
 響く馬車の 鈴の音に
 ボロンバイルに 陽は落ちる

2.腰の軍刀に 杖ついて
 遥かに望む ソビエット
 ウラルの彼方 モスコーの
 月を仰ぐは いつの日ぞ

3.北満ゆえに 春浅く
 なごりの雪の 消えやらぬ
 だれをたよりに なでしこの
 曠野の果てに 咲き誇る

作詩者不詳/作曲者不詳/春見俊介・編曲

<解説>
 「ノモンハン小唄」とも呼ばれ、いずれにしろ昭和14年夏、日ソ両軍の街で有名になったノモンハンで、現地の模様を描きこんで作られた歌です。一種やるせない哀愁があり、しかもこのノモンハン紛争は日本陸軍初の本格的敗戦に終わりましたので、かなり感傷的なメロディーとなっています。陸士関係者が口伝えで残した曲で、作詞・作曲ともに不明の、これも本格的"兵隊ソング”です。

07. 軍港小唄

1.春の横須賀 霞に明けて
 桜吹雪の 散る散る港
 艦のいる日は 風さえそよぐ
 なびくマストの 軍艦旗

2.寄する男波の 女の島に
 暮れりゃ鳴く鳴く 波間の千鳥
 街の青柳 夜風に濡れて
 月もささやく 呉泊まり

3.心残して 向後の岬を
 艦は出て行く 佐世保の港
 雁の便りを 留守居の窓に
 再度の上陸 何時じゃやら

4.雪の舞鶴 夜寒に更けて
 待つ身つらさの 情けのこたつ
 沖は寒かろ 今宵も吹雪
 夢も凍るか 波の上


作詩者不詳/作曲者不詳/春見俊介・編曲

<解説>
 これは数少ない海軍の”兵隊ソング”です。原曲があったようで、三弦調のメロディーは東海林太郎あたりのレパートリーを思わせるものがあります。横須賀、呉、佐世保と、当時の軍港を舞台に歌ったもので、長い洋上勤務から解放されて、お座敷あたりで大いに”浩然の気を養った” 海軍サンの気分が、うまくつかまえられています。三弦調の曲が出て来たのも、十二分に理解できるところであるといえるでしょう。

《管理人の知ったかぶり》
 作詩・作曲不詳とありますが、作詞:海野啓一 作曲:万城目正とあります。

 歌詞も5番がありました。

 5.軍港良いとこ御国の護り 海の勇士の安らい所
  積もる辛苦もさらりと捨てて 耳も澄むよな子守唄

08. ダンチョネ節

1.沖の鴎と 飛行機のりは
 どこのみそらでネ 果てるやらダンチョネ

2.色は黒ても 飛行機のりは
 空じゃ天女のネ 色男ダンチョネ

3.泣いてくれるな 離陸の時は
 泣けば操縦桿がネ ままならぬダンチョネ

4.飛行機のりには 娘はやれぬ
 やれぬ娘がネ ゆきたがるダンチョネ

5.飛行機のりには 娘はやれぬ
 今日の花嫁ネ 明日は後家ダンチョネ

6.明日は後家でも 飛行機のりと
 そうて苦労がネ してみたいダンチョネ

7.今度逢ふのは 九段の坂よ
 風に散りますね 桜花ダンチョネ


作詩者不詳/神奈川県民謡/春見俊介・編曲

<解説>
 もともとは神奈川県三崎地方の民謡でしたが、明治末期に商船学校の学生ソングとなり、さらに大正初期には一般にはやりうたとして愛唱されました。1冊5銭の当時の赤本(小型はやりうた集)にも必ず収録されており、歌詞もいろいろ作り加えられています。大東亜戦争末期には、特攻出撃する青年たちの間で大いに愛唱され”特攻隊ぶし”風に受けとられたほどです。もともと民謡ですから、小林旭の個性にピッタリで、ややニヒルな味がうまく生かされています。もっとも昭和35年小林旭最初のヒットとなったのが、この「ダンチョネ節」でした。

《管理人の知ったかぶり》 
 <解説>にある昭和35年小林旭最初のヒットとあるのは間違い、タイトルは同じでも曲が違います。後には「アキラのダンチョネ節」となりましたね。

 解説にある”神奈川県三崎地方の民謡”とあるのは三崎甚句の「勇波節」が原曲です。但し甚句はクセが強すぎて「ダンチョネ節」のメロディーからは程遠いです。
 ”商船学校の学生ソング”とあるのは、明治33年11月に東京商船学校の練習船月島丸が駿河湾で暴風雨に遭い沈没、122人が溺死するという傷ましい海難事故をモチーフとした「断腸の思い」(ダンチョネ)から来ていると言われます。こちらが本歌取りでしょう。

09. 可愛いスーチャン

1.お国の為とは 言いながら
 人の嫌がる 軍隊に 
 召されて行く身の 哀れさよ
 可愛いスーチャンと 泣き別れ

2.朝は早よから 起こされて
 雑巾がけやら はき掃除
 嫌な上等兵には いじめられ
 泣く泣く送る 日の長さ

3.乾パンかじる 暇もなく
 消灯ラッパは 鳴り響く
 五尺の寝台 藁布団
 こゝが我らの 夢の床


作詩者不詳/作曲者不詳/安藤実親・編曲

<解説>
 スーチャンとは”好きな人”の略称で、つまりは情人のこと。戦後の昭和34年大関進という少年歌手の歌により、当時「練艦ブルース」と呼ばれれていたこの曲がヒットしました。3拍子の哀調を帯びたいい曲で、歌詞ががまた当時の内務班の生活を憎いほどよく描いており、詞・曲ともに揃った”兵隊ソング”の傑作と申してもいい過ぎではありません。軍歌集レコードには欠かせないレパートリーになっていますが、小林旭の手にかかるとこれがもうひとつ味のあるものになってしまいます。

《管理人の知ったかぶり》
 別名「初年兵哀歌」ともいいます。解説には「練鑑ブルース」を大関進がヒットさせたとありますが、歌詞の内容が過激で教育的に影響があるとして放送禁止歌であったことからヒットは疑わしい(但し、若者たちの間で伝承的に広まった)。「練鑑」とは、東京の練馬少年鑑別所のことで、それらをモチーフとした日活映画『無言の乱斗』(和田浩治・準主演 1959)では主題歌として共演の守屋浩が「達者でいるかよお母さん」のタイトルで歌詞も牧歌的な内容に変えて歌っています。
 また、それに先行して同じ年に東宝映画「檻の中の野郎たち」で当時流行のロカビリー歌手、ミッキー・カーチス、山下敬二郎、守屋浩の3人を主演にした作品があり、この主題歌として守屋浩が歌う「檻の中の野郎たち」がある。こちらの歌詞はまた別の歌詞。
 https://www.uta-net.com/movie/91209/

 YouTubeで「練鑑ブルース」と検索すると元歌の他に、アレンジされた藤圭子バージョンもあります。「達者でいるかよお母さん」も検索で出ます。

10. ラバウル小唄

1.さらばラバウルよ 又来るまでは
 しばし別れの 涙がにじむ
 恋し懐かし あの空みれば
 椰子の葉かげに 十字星
 
2.涙のしぶきで 眠れぬ夜は
 語り明かそよ デッキの上で
 星がまたたく あの星みれば
 くわえ煙草も ほろにがい

3.赤い夕陽が 波間に沈む
 果てはいずこぞ 水平線よ
 今日もは遥々 南洋航路
 男船乗り かもめ鳥


若杉雄三郎・作詩/島口駒夫・作曲/春見俊介・編曲


<解説>
 戦後ヒットした"兵隊ソング”では「可愛いスーチャン」と共にトップ・ソングです。原作が昭和15年新田八郎の歌った「南洋航路」であることはあまりにも有名です。1番と2番は「ラバウル小唄」として有名な替え歌の部分で、3番が本来の「南洋航路」の1番にあたります。これほどよくレコードにとりいれられている"兵隊ソング”もほかには見当たらず、大ていの軍歌集レコードにきまって収録されています。

11. 馬賊の唄

1.僕も行くから 君も行こ
 狭い日本にゃ 住みあいた
 浪の彼方にゃ 支那がある
 支那にゃ 四億の民が待つ

2.俺に父なく 母もなく 
 別れを惜しむ 者もなし
 ただ傷しの 恋人や
 夢に姿を たどるのみ

3.国を出た時ゃ 玉の膚 
 今じゃ 槍傷刀傷
 これぞ誠の 男の子じゃと
 微笑む顔に 針の髭

4.み国を去って 十余年
 今じゃ満洲の 大馬賊
 銀月高く 空晴るる
 ゴビの砂漠にゃ 草枕


宮島郁芳・作詩/鳥取春陽・作曲/安藤実親・編曲


<解説>
  馬賊とは、中国東北地方(旧満州)にいた騎馬集団の武装民のことで、厳格に言うと決して”賊”ではなかったのですが、匪賊馬賊と並び称されて略奪を主とする武装集団というう風な受け取られ方になりました。明治の末から日本をはみ出して中国大陸に雄飛の夢をかけて押し渡る人々が増え、大陸浪人と呼ばれたりしましたが、武力胆力のある者は武装集団のリーダーとして中国軍閥の闇を荒らし回ったものです。これを描いた「馬賊の歌」には、当時いまでいうところの”脱日本”の気分がこめられていて若者たちに愛唱されました。

12. 男なら

1.男なら 男なら
 未練残すな 昔の夢に
 もとを正せば 裸じゃないか
 度胸ひとつで 押して行け
 男なら やってみな

2. 男なら 男なら
 七つ転んで 八つで起きる
 思いなおせば 愉快な世界
 若い心は デカク持て
 男なら やってみな

3. 男なら 男なら
 お洒落する間に 腕を磨け
 磨きゃ前途が 楽にはなるが
 お洒落するのも 楽じゃない
 男なら やってみな

4.男なら 男なら
 愚痴は言うまい 嘆いちゃならぬ
 それで済まなきゃ 人形のように
 顔で泣かずに 腹で泣け
 男なら やってみな


西岡水朗・作詩/草笛圭三・作曲/安藤実親・編曲


<解説>
 山口県地方の民謡「オーシャリ節」の歌い出し”男なら やってみな”を利用して昭和12年、支那事変直前に発売されたものです。林伊佐緒、近衛八郎、樋口静雄の3人で歌ったものですが、戦争中にいつの間にか一種の男の歌としての"兵隊ソング”の扱いになってしまいました。戦後も石田一松(故人)三船浩、水原弘、田端義夫らが歌っていましたが、小林旭の気合いのこもった歌唱もまたこの曲に新しい生命を吹き込んでいます。

13. 巡航節

1.帽子まぶかに 月のまゆ隠してヨー
 笑みを含んでヨー チルラーとるヨー

2.沖のかもめに 潮どき問えばヨー
 わたしゃたつ鳥ヨー 波に聞けヨー

3.娘さんよく聞け 生徒さんにゃ惚れるなヨー
沖でドンとなりゃヨー 若後家ヨー

4.巡検用意の ラッパを聞けばヨー
 そぞろ故郷がヨー 偲ばるるヨー
 
5.吹くや春風 散らすな桜ヨー
 せめて考査のヨー 終わるまでヨー

6. 考査終われば 休暇も近いヨー
 休暇訓練ヨー なんのそのヨー


作詩者不詳/作曲者不詳/春見俊介・編曲

<解説>
 これは海軍兵学校で作られた作品ですが、元歌はやはり民謡のようです。土曜日の午後から日曜の昼にかけて、分隊所属のカッターで弁当菓子類を積み込んでのセーリングを”巡航”といました。その模様を具体的に歌ったのがこの曲で、”赤道”と呼ばれた一線を越すと上下級生の区別を廃した無礼講になりました。1番のチルラーは Tillerでカッターの舵柄のこと。戦後このメロディーが「山男の歌」として一般に愛唱されています。

 <解説>の中の元は民謡とあるのは、岡山県は笠岡市の北木島の労働歌「石切唄」のようです。海軍兵学校があった江田島に近いのも関係があるのでしょうか。しかし、メロディは「アメリカ民謡」との説もあります。
 
海軍兵学校の「巡航節」の一部

 雪をあざむく 白地の事業服
 胸のマークはヨー 一の文字ヨー

 帽子目深に 月の眉かくして
 笑をふくんでヨー チルラーとるよ

14. 特攻節

1.燃料片道 テンツルシャン
 涙で積んで 行くは琉球死出の旅
 エーエ 死出の旅

2.地上離れりゃ テンツルシャン
 この世の別離 想い出します母の顔
 エーエ 母の顔

3.雨よ降れ降れ テンツルシャン
 せめても雨よ 整備する身のこのつらさ
 エーエ このつらさ


作詩者不詳/作曲者不詳/春見俊介・編曲


<解説>
 「白頭山節」を原曲に、特攻出撃を控えた青年たちが作り、愛唱した歌です。「白頭山節」は満鮮国境の名山白頭山を歌った新民謡で、陸軍関係者の間でよく歌われましたから、恐らく陸軍関係の特攻基地で作られたものと思われます。このほか「特攻隊節」と呼ばれたものに、「露営の歌」の前奏をそのまま歌にした「さくら進軍」があり、主に比島方面で歌われました。いずれにせよ、特攻出撃を前にした若者たちの、この歌を作り、歌うゆとりは、今でもわたしたちの胸を打つものがあります。

かつての戦争で亡くなられた兵隊さん、犠牲になられた多くの一般の方々に追悼の意と兵隊さんたちには感謝いたします。