今はなき郷エイ治さんが兄である宍戸錠さんと、無二の親友であった赤木圭一郎さんについて書かれた文章です。これは「映画アルバム 宍戸錠全作品集」(1961年4月発売)より抜粋したものです。最近、入手したものですが、そのまま埋もれさせるのも勿体ないので特別に掲載させていただきました。一ファンとしての行為ですが、もし掲載に問題がありましたらお知らせ下さい。早急に対応致します。

 

 

 

少年時代
 兄貴が映画俳優になったとき、 それを聞いた僕は驚いた。僕 だけでなく、家中がびっくりし た。兄貴は俳優になりたい、などということはただの一ぺんだっていったことはないからだ。 兄貴得意の電撃作戦だ。
 もっとも、兄貴は映画を見るのがメシより好きだった。メシもよく食ったが、映画もよく見 た。子どものころから好きだったようだ。
 子どものころ、よく兄貴が映 画を見に僕を連れて行ってくれたことを思い出す。たしか、ま だ僕が小学校に入る前のころだ。兄貴と僕は四つ違いだからそのころ兄弟は小学校の三年生ぐらいのときだろう。どんなものを見たか、あまりはっきりおぼえていないが、とにかくほとんど戦争ものだった。戦争中だったから西部劇などはなかったにちがいない。
 映画にゆくと、兄貴はかならずキャラメルかおせんべいを買 ってくれた。僕は映画をみるよ り、そっちの方が楽しみで兄貴 についていったのである。
 そのうちに戦争がはげしくなり、家族みんなで宮城県に疎開することになり、また僕は兄貴と一緒に住むことができるようになった。そこは山の中で、爆撃の心配はないかわりに、ほんとの田舎だった。僕たち兄弟はすぐ村の子どもと仲ょしになり兄貴はたちまち近所のガキ大将になった。兄貴は喧嘩も強いし、そしてまた村の子どもたちが知らないゲームをいろいろ知っていたから、自然子供たちの尊敬をかちとることができたのだ。
 田舎の学校で学芸会などをやると、兄貴はたいてい主役になった。ずば抜けてうまいので、拍手がすごかった。そんなとき、僕は自分が拍手されているみたいに、鼻がたかかったが、考えてみると、兄貴はもうこのころ、すでに俳優になろうと決心していたのかも知れない。
 兄貴は中学に入ると急に大人になったように僕には感じられた。村から汽車に乗って町の中学校に通う兄貴は、もう鼻たれ小僧どもと探偵ゴッコをするガキ大将の兄貴ではなくなった。 家に帰ってきても、たいていむずかしい顔をして勉強ばかりしている兄貴に、僕は尊敬の念を覚えたが、一方では、あまり遊んでくれないのでなにか物足りなかった。

学生時代の兄貴
 兄貴が日本大学の芸術科に入 学したころ、僕は兄貴の下宿先に遊びに行った。部屋の壁にはピカソばりの奇妙な絵がいくつもかかって、まず度ギモを抜かれたが、それが全部兄貴の創作だと聞いたときはまたピックリした。なにがなんだかわからない絵が人間の顔だったり、花だったりで、「お前も、ちょっと 見ないうちに、男らしくなったな。そうだ、肖像画を措いてあげようか」といわれたときには、さすがに僕もことわった。 兄貴が僕の庶に美(?〕を見出したのも、その旺盛な芸術意欲 もわかるけれど、せっかく親からいただいた顔をクモの巣みたいに描かれては申しわけない。 それに、もし下宿の娘か誰かが見たら、化物と誤解される怖れがある。
 それはとにかく、そのとき何年ぶりかで一緒に映画を見にい った。キャラメルやおせんべいを買ってもらってうれしかった子供のころのなつかしい想い出を、思う存分かみしめながら、 僕たち兄弟はホット・ドツグをパクついて西部劇を見た。兄貴ってのはいいなあ、早く一緒に住みてえな−僕はしみじみそう思った。
 そのときは気がつかなかったが、それからちょくちょく兄費の下宿にゆくうちに、兄貴の独特の生活に気がついた。兄貴の机の上には、つねに時間表が置いてある。学校の授業の時間表ではなくて、“生活の時間表”なのである。それは一週間ごとに変わり、例えば月曜は学校、バスケット、映画、火曜日は演劇、野球、絵。木曜は学校、テニス、音楽、読書・‥というように書いてある。この時間表に従って、兄貴は学生生活を楽しんでいたのである。その時間表の中にデイトというのがあったか、なかったかは残念ながら思い出せないが、とにかくバラエティーに富んでいて、かならずスポーツの時間はあった。雨で屋外スポーツが出来ないときは、下宿でエキスパンダーをしたり、腕たて伏せをしたりして汗をかいていた。
 僕が高校三年のとき、家族は東京に戻り、久しぷりに一家団らんの楽しさを味わえるようになった兄費は画家になるつもりか、例のピカソばりの絵にいよいよ熱中し、僕は僕で大学進学のための試験勉強で痛い頭を抱えていた。ときどき、息ぬきに音楽の時間につきあって、一緒 にレコードを聴いたり、歌を歌ったりしたが、僕は音痴なので 兄費も僕の歌には大分悩まされたらしい。
 歌だけでなく、あらゆる面で、僕は兄貴に頭があがらない。兄貴は絵もかくし、近く個展をひらくそうだ、詩も作るし、 芝居もやる。スポーツはなんでもこいで、将棋をやっても歯がたたない。なにをやっても、兄貴にかなうものはない。
 そこで喧嘩だけは兄貴よりも強くなろう、と思ったわけではないが、身体だけは兄貴に急けないような頑強な肉体の持主になろうと一念発起して、僕は明治大学に入るとすぐボクシング部に入った。なにをするにも身体が資本である、頑健な身体を作るのは若いときだ、という兄費の持論に共鳴したせいもある。

アルバイト・スタア
 日活に入った兄貴は、急に忙しくなったようであった。ロケや夜間撮影で数日も家に帰って来ないことがある。奇妙な絵もキャンバスに描きかけではうり出されたまま、映画もたまにしか見にゆけない。絵といえば、そのころの兄貴は自分の肖像画ばかり描いていたが、さすがに自分の顔はクモの巣にしたくないとみえて、もっぱら二枚目の自画像を描いていた。
 俳優になったころの兄貴は、ひょろりとした二枚目だった。裸になるとスポーツで鍛えただけに、なかなかいい体格をしていたが、いまのような精悍な風貌はなかった。「警察日記」で純情な警官をしていたころの兄貴と、殺し屋ジョーからエースのジョーになったいまとでは体格も風貌も大分ちがう。その変ぼうぶりは、弟の僕がおどろくくらいだ。
 いつごろからだろうか、兄費は猛烈な勢いで身体の鍛練に熱中しだした。ヒマさえあれば、水泳、重量あげ、機械体操、ボクシングと、いわば筋肉づくりに懸命になった。今にして思えば、兄貴はアクション映画全盛の現在の映画界を見越していたのかも知れないが、いつか西部劇に出てくるアチラの男優のたくましい身体を見て「男優は顔だけよくてもダメだな」と感嘆していたのを想い出す。
 たしかあれは大学二年の夏休みのときだったと思うが、兄貴がアルバイトに映画に出てみないかと僕にいった。とんでもないよ。と僕は断った.顔は図太いように見えても、これで僕の心は繊細なのだ。それに人の前に出てお芝居の出来る柄じやない。すると兄貴のいうことにはお芝居などしなくてもいい、ただ電信柱みたいに突っ立っていればそれでいいのだとのこと。電信柱とは情ないが、そのくらいなら僕でもできる、よし、小遣いかせぎにやってやろうと、そう決心して僕は初めて撮影所なるものの門をくぐったのだが、そのときは、毎日そこへ通ぅようになろうとは夢にも思っていなかった。 
 その映画は「俺は流しの人気者」というやつで、兄貴のほかに川地民夫さんや沢本忠雄さんたちが出演していたと記憶している。兄貴がいるので、少しは心強かったが、なにがなんだかさっぱりわからず、セットの中をただウロウロしていると、そのとき、やっぱり僕と同じように、セットの片隅でポツンと坐っている男がいたので、こいつも新米らしいと、へんな親しみをおぼえて声をかけた。その男も、よっぽどつまらなかったとみえて、たちまち僕たちは気心があい、その晩銀座に出て一緒に映画を見た。この男が赤木圭一郎である。日活に入ったばかりで、まだ本名の赤塚親弘を名乗っていたが、いい顔をしている奴だな、と男の僕も舌をまいた。
 それはともかく、僕はそれ一回で映画出演はこりごりした。撮影の合間を待っている時間の手もちぶさた、まどろっこしさが気の短い僕の性格には合わなかったからだ。

トニイの思い出
 映画のアルバイトにこりた僕だったが、それから一年半ほどして、つまり大学を卒業した去年の正月に、また出演してしまった。そのときも兄貴にいわれ僕も断ったのだが、こんどは電信柱じやなくてボクサー役だという。「ボクシングをしていれば、それでいいんだ。赤木圭一郎と試合をするボクサー役なんだがね」赤木と開いて、僕は興味を覚えた.それにボクシングなら突っ立っているよりも得意だ。 僕はOKした。
 それは「打倒(ノックダウン)」という赤木のボクシング映画で、一人の無名のボクサーがチャンピオンになるまでの話を描いたものだった。僕は赤木と試合をして負けるボクサーになった。 つまり、ポカスカ殴られる役である。このシーンは後楽園ジムで三日にわたって撮影されたが、それは大変な強行撮影だった。プロのボクサーでも、あれだけぶっ通しでリングに上っていたらぶっ倒れてしまうだろう。トニーはフラフラだったが、懸命にこらえてやりおえた。僕はそのファイトに敬服した。
 この映画は好評だった。僕も見て感動した.その感動は観客としてのものであり、また、映画の製作に加わった人間としての感動でもあった。俳優が情熱をぶち込んで、演技に生きる意味と理由を僕は悟った。兄身の映画に対する異常なまでの意欲と、兄費が映画に見出したか生き甲斐を、僕は初めて理解出来たように思った。
 この映画出演がきっかけで、僕とトニーはまたつき合ぅようになった。兄貴とトニーとはすでに友だちだったので、この三人で遊ぶようになった。トニーは底抜けにいい奴だった.陽気で、そのくせ淋しがり屋で、個性的な男だった。僕たちには何でも打明けて話したし、僕たちもトニーにはいいたいことをいい、実に愉快な仲間だった。よく遊び、よく呑み、よくしやべった。僕が映画俳優として日活に入社したのも、トニーといういい友だちがいたからである。
 淋しがり屋の彼は、よく僕たちの家に遊びに来た。夜遅く、僕たちが寝てしまってから、急にやってきて、僕たちをたたき起していいたいことをいって帰って行く、そんな奴だった。ほんとに、いい奴だった・・・。
 そのトニーはもういない。兄貴も僕も、しばらくは、自分の身体の一部がなくなったようなたまらない気持だったが、その悲しみをふりほどくように兄貴がいった.「あいつの分まで、やろうじやないか。それがなによりトニーの友情だ」−僕もそうだと思った。あいつの分までがんばろうと思っている。