昭和30年代のある時期に日本中を席巻した歌があります。それが民謡・俗謡をモチーフとした新しいスタイルの「ブシ」それが大ヒットした一連の「アキラ節」です。突き抜ける明るさは、新型コロナウイルスが蔓延する今の世の中にこそリバイバルで歌われるべきだと思います。新型コロナを「アキラ節」でぶっ飛ばしましょう!!

アキラ節で新型コロナウイルスをぶっ飛ばせ!

■ダンチョネ節(『海から来た流れ者』主題歌)

「ダンチョネ節」はズンドコ節より先に発売されましたが、ズンドコ節の大ヒットにつられるようにグングン人気が出て、こちらもヒット。大正時代に流行したダンチョネ節を新しくアレンジして大ヒット。後に「アキラのダンチョネ節」となります。

「おけさ数え歌」は、映画・渡り鳥シリーズの第3弾『渡り鳥いつまた帰る』の主題歌として、おけさ踊りの群舞シーンで、こまどり姉妹と共に歌われます。

ダンチョネ節
(1960.3.1リリース)

※動画はYouTubeのリンクですから、
削除の場合もあります。


■ おけさ数え唄(『渡り鳥いつまた帰る』主題歌)

「おけさ数え歌」は、映画・渡り鳥シリーズの第3弾『渡り鳥いつまた帰る』の主題歌として、おけさ踊りの群舞シーンで、こまどり姉妹と共に歌われます。


ダンチョネ節
(1960.3.1リリース)

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■鹿児島おはら節/ズンドコ節(『海を渡る波止場の風』主題歌)

「鹿児島おはら節」は後に「アキラの鹿児島おはら節」となります。

アキラ節の代表曲は「ズンドコ節」です。当時の全国の街中では「♪ズンズンズンドコ 街のみんながふりかえる」と商店街のスピーカーから流れていました。ラジオからも毎日この歌が流れ、小さい子供からおじいちゃん、おばあちゃんまでもくちずさんでいました。後に「アキラのズンドコ節」となります。


(1960.6.1リリース)

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各地で圧倒的な売れ行き!

アキラ君、君の歌は「ゼニの取れる歌」だね(小倉友昭:音楽評論家)


コロムビアの邦楽部長が「『ズンドコ節』はもうそろそろ二十万枚になる。考えてみると恐いようなヒットで・・・。」
と言っていた。「ズンドコ節」一曲で六千万円の膨大なゼニを上げるわけなのである。一枚300円が20万枚(※注:昭和35年当時)、邦楽部長の話ではないが、ちょっと恐いような話ではないか。
小林旭は“ゼニのとれる歌手”なのである。ここでもうひとつの例をあげてみよう。
日本中で、レコード売り上げのひとつのバロメーターとして注目されている名古屋で、最近の流行歌のベスト・セラーを見ると、
①「ズンドコ節」②「月影のナポリ」③「ダンチョネ節」④「アキラのツーレロ節」といった順になっている。名古屋は、映画でいえば浅草と同様な位置を占めるレコード市場。それだけに、ここの動向は注目されるのである。その証拠に福岡では、③「ズンドコ節」④「アキラのツーレロ節」⑥「ダンチョネ節」と十位以内に、小林旭の歌が三曲も入っている。近来の記録、といっても差し支えないほどの恐るべきのびうようを、彼の歌が示しているのである、二年前の石原裕次郎の歌と同様な爆発的な人気を得ているわけだ。
やはり、小林旭の歌は、“ゼニのとれるもの”ということが云えるのである。

アキラの集い

「まず『ダンチョネ節』がのびてきた。そして、これはヒットするナ、と思っていたら、『ズンドコ節』がグンと出てきた。ついで『ツーレロ節』『ノーチヨサン節』・・・あとは、あれよあれよ、という間にぐんぐん伸びて・・・」
さて小林旭のレコードの売れ具合、ヒットの波をこうコロムビアはいっている。
もともと、ヒットするという動きは、こんなようなものだ。三橋美智也にしてもフランク永井にしても、或いは三波春夫、松尾和子といったところも(注:当時の他社ヒット歌手)、例外なくちょっとしたキッカケがつづけてヒットを産んで行く。だから歌手は、そのキッカケをつかむことに苦労する。
小林とて同様だった。
デビューする前に、すでに十曲近くの吹き込みを終えていたほど期待されていた彼は、その期待されていたデビューが意外にのびなかった。それが予期していなかった「ダンチョネ節」が予想を上まわってのびた。もともと、その素質を買われていた彼なのだから、このきっかけさえつかめば、そのノビはとどまるところを知らない。
ここで先に述べた反復作用が出てくる。彼の声は、歌は、このきっかけをつかむ前にファンの耳にしみこんでいたわけなのである。それだから、ちょっとしたきっかけが大きく作用することになる。なれしたしんだ声による好みの曲----一連の彼の俗謡がファンにもたらしたものは、こういったものだった。これが「予想もしない」大きなヒットの発端だった。

(昭和35年11月上旬号 別冊近代映画「大草原の渡り鳥」特集号より)

■アキラの会津磐梯山 (『赤い夕陽の渡り鳥』主題歌)

「アキラの会津磐梯山」は『赤い夕陽の渡り鳥』の舞台である会津磐梯山の民謡がモチーフの歌ではあるが、歌い始めのかけ声「チョーチョチョ・・・」が独特であり。ラテン調のリズムや「ウー」などの合いの手がモダンとされた。


アキラの会津磐梯山
(1960.7.10 リリース)

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■アキラのツーレロ節(『赤い夕陽の渡り鳥』挿入歌)


「アキラのツーレロ節」は戦中のお座敷ソング「シャンラン節」(美ち奴)の一部の歌詞がモチーフとされます。こちらも軽快なラテンリズムでヒットしました。「ツーツーレロレロ」の歌詞部分がひとり歩きし話題になりました。後には「ドリフのツーレロ節」も現れます。


アキラの会津磐梯山
(1960.7.10 リリース)

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■ノーチヨサン節 (『東京の暴れん坊』主題歌)

『ノーチヨサン節』 の謎
“ノーチヨサン ”は人の名前なのか、何なのか当サイトでも色々と意見が出ましたが結論は出ません。そして、サイトに来られた近代日本音楽研究の菊池清麿氏に訊ねました。そして明快な回答を得ました。以下の通りです。
 ノーチヨサン節という歌は明治二十年頃の流行歌でその「ノーチヨサン」という言葉は文久の頃に流行した《はんよ節》に見ることができます。
(過去に書いたものを再掲載)


アキラの会津磐梯山
(1960.8.1 リリース)

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■アキラのホイホイ節  『南海の狼火』挿入歌

『ホイホイ節』 は、作曲が倉若晴生とあるので、未確認ではあるが田端義夫に提供した曲ではないかと思われる。それを西沢爽作詞・野村俊夫補作詞で作られた。民謡シリーズから、よりコミック性の高い歌詞であり「イカレちゃった」や「単車とばして」などの歌詞が時代性にあふれている。
倉若晴生は昭和初期から中期にかけて活躍したポリドールの歌手であり作曲家。作曲数は100曲を超えると云われる。




アキラのホイホイ節
(1960.9.10 リリース)

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■アキラのソーラン節  『大草原の渡り鳥』挿入歌

『大草原の渡り鳥』の中でキャバレーのシーンでアキラが歌いながら登場する。北海道を舞台としたことから北海道のニシン漁で歌われた労働歌であり民謡「ソーラン節」が歌のモチーフとして使われた。オリジナルよりファンキーで楽しいスタイル。


アキラのホイホイ節
(1960.10.5 リリース)

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■アキラのチョンコ節  『大草原の渡り鳥』挿入歌

「チョンコ節」は日本庶民の伝統曲です。ジャンルでは「猥歌(わいか)」にあたるでしょう。19世紀末頃に流行したらしい。可愛いところでは「坊主抱いて寝りゃ めちゃくちゃ可愛い どこが尻やら 頭やら チョンコチョンコ」とか。
ハードなのでは「汽車の窓から ちんちん出して 汽車賃出したと大いばり チョンコチョンコ」など。もっと、卑猥なのもあります。

ところが「アキラのチョンコ節」は、恋心を小気味良いリズムにのせて歌われます。「チョンコチョンコ チャチャチャ」のフレーズがいいですね。


アキラのホイホイ節
(1960.10.5 リリース)

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※以後も追加予定です。陽気に新型コロナウイルスをぶっとばしましょう!