「巷の子守歌」
2002/12/24
新しいCDなどを買った時はついジャケットを見ながら、そして
ライナーノートなどを読みながら、曲に耳を傾ける人は多いと思う。
そこまではいいとしても、歌詞を目で追いながら聴くと文や言葉を
ロジカルに受け取ろうとする力が働き、心ではなく頭で聞いてしまい
歌そのものの真の味わいが、ともするとスポイルされるのような気が
して、初めて聞く時は(見たいけれども)歌詞カードは見ないように、
というのが、私の聴き方だ。言葉よりやや音を優先して聞くわけだ。
そして想像であれ歌詞体験を共有するためにともかく声を出して歌う。
自分で歌ってみて初めてその曲の味わいに気付くことがある事を、
たとえ歌うのが苦手な人も、聞くに徹する人も知っておくべきである。
更に、歌いつつ節回しが自分のものになった時初めて曲に血が通い
歌の真髄が見えてくる、ということも…。
ここまでくれば、「いい曲だよね」で十分、もう歌語りなど無用の
長物「言うも恥ずかし」なんである。けれども、ここからわざわざ
理屈をこね何故語るかといえば、旭を先入観や表面だけで捉えている
連中(なかんずく自分も含め)にパンチを食らわせたいからだ。
さて私に長い前置きを書かせたものこそ「巷の子守歌」である。
「子守歌」は、当たり前だが歌詞カードがない、聞く方は原則的に
言葉の意味さえ解らぬ赤ん坊である、にもかかわらず確実に何かが
伝達されているというこの不思議。しかも「子守歌」は作ろうとして
企てたものではない、なかば自然発生、口伝えであって、「作品」では
ないのだ。こんな形而上領域に挑むというのは、作詞家として意気に感ずれど
これを踏まえた上でなければなまじ子守歌など書こうと思わぬ方がいい。
全編ぽっと浮かんだそれらしいシンプルで数少ない言葉を並べただけ
のように見えるがこれが全くの思い違い、実によく練り上げられた内容と
歌詞構造を持っている。この美しくやさしい歌のインパクトは
たしか、昔いつだったかどこかで出会ったことのある感触、そう
この曲はいってみればオスカーワイルドの「幸福の王子」だ。
このハイカラーさ!、詩人としての志の崇高さ、人としての教養の深さ!
ツバメが王子の願いに従って、村の様々な貧しい家ごとに、王子像の装飾として
使われている宝石や金箔を剥がし、届けるという童話をご存じの方も多いだろう。
目である宝石を持って行かせ盲目となった王子は、貧しい村の家々の様子を、
ツバメに代わりに見に行かせ、見てきたことを話して聞かせてくれと言う。
歌詞構造は1番から4番までそれぞれ独立していて、例えば巷のどこにでもある
ありふれた人生や生活の姿を、ちょうどあたかもツバメが一軒々々覗いてまわり、
時に個人を、時に民衆の姿を赤裸々に私たちに話してくれるように作られている。
そしてそれら個々の窮乏と悲しみに、さしのべられる心が秀逸だ、すなわち
1番、故郷(基盤)の喪失、過去への郷愁には「なぐさめ」を
2番 物質的貧困には「励まし」を
3番 精神的欠乏には「優しさ」を
4番 羅針盤故障、漂流、未来への不安には「共感」を注いでいるのだ。
あたかも幸福な王子が1枚1枚、身を削って与えるように。
1〜3番は、同じ一人の人間の複数の断面と考えても良いが独立した個々の人だと
考えたほうが「巷の--」を反映している。私もこの中のどれかに違いない、万一
このどの軒にも属さないと言う人がいても、このツバメはあなたを見逃さない。
「1軒、2軒、3軒」、それから「残り全軒」という4番の歌詞には唸らざるを得ない。
この王子は、個々人はもちろん、必ずあなたを含む全体をも救おうと思っている。
子守歌は子供にとっては歌ってもらうもの、大人は子供に歌ってあげるものだが、
このツバメ(旭)は、お前自らが自分の持っている物をすべて投げ出せるような
「幸福の王子」になれよと、言葉を越えた歌声(子守歌)で言っているようだ。
おしまいには一緒に死ぬ石像の王子と鳥のツバメとのあいだに交わされた心と心は、
そんな種類のメディアで、通じ合っていたに違いない。
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