「夢を語る、自分の目標を大きく持つということなんだ」…小林旭さんは語った。     


管理人自らのことを冒頭から始めて恐縮ですが、小林旭さんへの思い入れは子供の頃にラジオから流れて来る歌でした。「ダイナマイトがよぉーほぉーほぉーほほ」と軽快に吹っ飛ぶような歌は衝撃的でした。子供なのでラジオから流れる辛気くさいじめじめした恋の歌はダメなもので、軽快なリズムの洋楽に匹敵する親しみやすさをおぼえて、いつも口ずさんでいたものです。また、長兄が買ってくる「平凡」「明星」にはキラ星の如くスターがあふれていました。そうした付録の歌本の中に「ダイナマイトが百五十屯」を見つけたのを憶えています。しかし、それに添えられた絵は私のイメージとは異なるもので炭坑の抗口がぱっくり開いたような絵だつたような記憶があります。それが私にとっては歌に対する不当な扱いだと子供なりの義憤を憶えました。そんなはずはない、もっとカッコいいものだと感じてました。

その後は、とんで『口笛が流れる港町』の映画看板に魅了されたこと。白いマフラーに革ジャンのスタイルが当時は大流行したようでバイクに乗る人は全て白いマフラーをしていたような記憶があります。飛行機のパイロットのイメージからなのでしょうか?その頃のバイクのヘルメットは耳当てのついたものでした。そんな白いマフラーをなびかせてすっくと立った映画の看板に一目惚れ。そして何よりも革ジャンの袖のホルスターにガンを入れるスタイルがたまらなかったのです。早速、子供どうしで「撃ち合いごっこ」をする時は、自分のジャンパーにオモチャのピストルを輪ゴムで止めて、滝伸次を気取っていました。

まえおきはこの程度で、そろそろ始めましょう。今回は小林旭さんが語られた内容のものを引用し、渡り鳥までのエピソードをかいつまんで紹介致します。

 

意地でなったぜ俳優稼業

 

●日活入社のきっかけ
旭さんのお父さんは照明技師で松竹蒲田、新東宝などで仕事をしておられた。そこで映画関係者が家の方によく遊びに来られた。そんな環境で旭さんは照明の機材運びなどを手伝っておられた。
お父さんの親戚筋に東映の常務だった方がおられて、東映のニューフェース募集があるからと高校一年生の旭さんに勧められた。結局、最終審査で年齢が若過ぎるということで不採用。その時に居たのが高倉健さん。昭和30年(1955)の話。

その翌年、酔っぱらったお父さんと旭さんが喧嘩となり、お前なんか役者になれないという父の言葉を受けて、カチンときた旭さんは「茂木のおじさん(旭さんの話によく出ます)」に相談。ちょうど、第三期日活ニューフェース募集の時で見事に合格。一応、意地を果たした。茂木了次さんとは新東宝から日活へ移られたプロデューサーで、旭さんのお父さんと知り合いでよく家に来ていた。

●もしかしたら『狂った果実』がデビュー作だったかも知れない
『狂った果実』(中平康監督)の石原裕次郎さんの弟役で津川雅彦さんと最後まで競り合った。監督の中平さんは旭さんで行きたかったらしいが他のみんなが津川さんを押した。監督は、そのかわり来年は僕の映画に出演してもらうと約束。(翌年『殺したのは誰だ』に出演、評判となる)もしかしたら、裕次郎さんの弟役でデビューしていたかも知れない。

●デビュー作のエピソード
『飢える魂』(川島雄三監督)が正式デビュー作。この映画での面白いエピソード。
「僕はカチンコが鳴る前『ヨーイ、スタート!』といわれただけで芝居をしちゃうクセがどうしてもあってね。その度にチーフ助監督のイマヘイさん(今村昌平監督)から、『あのね、小林君、ヨーイ、スタートと言ってブーッと鳴ってね、カチンとカチンコが打たれてからじゃないとフィルムは回らないんだから、そうしなきゃダメだよ』とくりかえし注意されたんです。それがとっても印象に残っていますね」


●夢を持って進む下積み時代
当時の旭さんは新人契約でもらっていた月給は7000円。だから仕出しもしなければいけなかった。一日の仕出し料200円。劇団東童での経験から芝居はできたし、はつらつとしていたから、よく声がかかった。松竹、新東宝から流れて来た大部屋ベテラン俳優の中で目立つ存在の旭さんは目のカタキだった。(以下は旭さんが語る)

一年目を過ぎたあたりから吉村廉さんの 『青春の冒険』(1957)とか古川卓巳さんの 『九人の死刑囚』(1957)鈴木清順さんの『踏みはずした春』(1958)といった青春映画の主役をとれるようになったからね。
僕はね、ああいうふうになるんだとか、こうしたいんだということを、割と平気で人前で言ったし、それを目標に行動する人間だったんですよ。だから、日活の仲間にも「お前はウソつきだな」と言われたことがあったけれども、ウソつきというんじゃなくて、夢を語る、自分の目標を大きく持つということなんだ。あとになって、旭はウソつきじゃなくて有言実行型の人間なんだと言ってくれるようになったけど、僕にはそういうクセがあるんだよね。

 


上昇志向がつかんだ「渡り鳥」

 

●有名になってやる
当時、俳優部に月給をもらいに行くと、旭さんの袋は薄いが、森雅之さん、三国連太郎さん、轟夕起子さんらの袋はドサッと置いてある。それを見て俄然ファイトが湧いた旭さん、それをきっかけに名前が売れることを確実に意識した。

●美空ひばりさんとの初めての遭遇
劇団東童の頃(いつかは不明)、田村町のNHKスタジオに放送劇の手伝いに行っていた。放送劇といえど、その他大勢の役。仕事が終わって帰ろうとすると、大勢のマスコミ陣を引き連れて正面玄関から入ってくる人間にぶつかった。それが美空ひばりさんだった。ロビーの奥の喫茶店に、ひばりさん一行が入って行ったが、ひばりさんのテーブルには豪華なメニューが並んでいた。それを見て旭少年は、やっぱり有名にならなきゃと思った。

●プロマイドが売れて
デビュー二年目くらいの頃。マルベル堂の社長が俳優部に来ていて「いやあ、小林さんのプロマイドが最近、すごく売れてきたんですよ」と言う(*「渡り鳥」の前である)。旭さんは「われわれの写真でそんなに儲かっているんだったら小遣いを一万円くらいちょうだいよ」って冗談半分に言うと、その社長はあっさり千円札を十枚手渡した。(以下は旭さん談)

誰がどう言おうと、結果がよければいいんじゃないかと無鉄砲なこともやれたわけで、作品をえり好みしてどうとか、俺はスターだからとか、そんな余計なことを考えている暇はなかったんだよね。

●歌がヒットして
(以下は旭さん談)
昭和32年の終わりから33年の初めにかけて、舛さん(舛田利雄監督)とか松尾さん(昭典監督)とか、監督に昇進していろいろ撮り始めるんだけど、舛さんの『女を忘れろ』(1959)は歌が先行した作品ですよ。その前に西河さん(克己監督)の『孤独の人』(1957)で、僕が鼻歌を歌って掃除をするシーンがあったんです。そこへたまたま目黒健太郎さんという、コロムビア・レコードのディレクターが音楽の打ち合わせに来ていて「高くておもしろい声を出しますね」と言われて、レコーディングをやってみないかと誘われたわけですよ。(中略)コロムビアのスタジオに行って、船村(徹)さんにピアノのレッスンを受けたら「ああ、これはキーの高さが三橋(美智也)さんと同じだな、よし、わかった」ということでつくってもらったのが「女を忘れろ」と「ダイナマイトが一五○屯」だった。そしたらこの歌が売れちゃってね、じゃ映画にしようと。割と運がよかったんだね。

 

いよいよ飛び立つ「渡り鳥」

 

●印象に残る初期作品
ものすごく印象深く残っている作品は『絶唱』(滝沢英輔監督)であると語る旭さん。「あの頃の日活の中ではもっとも優秀な監督の一人です。巨匠ぶらないし、それでいて緻密な計算が立てられる人でね、なんかみんなのために骨を折っているという感じだった」

●日活隆盛の期待を背に受けて
昭和33年の正月映画は裕次郎さんの『嵐を呼ぶ男』が空前のヒット。本格的な裕次郎ブームがやってくる。その後もたてつづけにヒットを出したが、やや勢いが止まる頃に代わって登場したのが旭さんの『南国土佐を後にして』(1959/斉藤武市監督)が大ヒット。急遽、会社は「小林旭で行こう」となった。勝負玉は『ギターを持った渡り鳥』(1959/斉藤武市監督)これが続いてのヒット。向こう三年間は日活も笑いが止まらなかった。

●敵が多いあいつ
(以下は旭さん談)
そのうち裕ちゃんが脚を折ったり、赤木がゴーカート事故で亡くなったりして、小林旭が一番使い勝手がよくて丈夫だわいということで、シリーズものだけで五、六本持たされて無茶苦茶に使いまくられた時代ですよ。それで若いから前の晩につい遊んじゃうんで、朝起きるのがしんどくなって、撮影現場に遅れて行ってしまう。多少は時間の余裕をみてよとこっちは思っても、なんだ三十分も遅れて来やがってと険悪なムードになる。だから、現場での評判は悪かったよね。僕は自分の気持ちをストレートに出すほうだから、気分が乗らなければそのまま抵抗しちゃうという面があるんだけれども、それでも自分なりにコントロールしながら抵抗してきたんだよね。だから、ここまで持ったんだと、やって来れたんじゃないかと思う。

●旭氏大いに語る
(以下は旭さん談)
それこそ大会社の会長や社長が一ヶ月で使うような金額を、一晩でバカ騒ぎして使ったんだから。だけど、それが仕事で溜まったストレスを発散させて、次の日の仕事に気分良く入っていく方法でしたかなかったし、一つの社会還元じゃないかみたいに思っていたんだね。そりゃ一般の社会常識感覚からすれば、それだけのお金があるんなら、たとえば社会救済するとか、なんか世の中に役に立つものに使えばと思うんだろうけど、でも、それをやったら「渡り鳥」の小林旭は生まれなかっただろうし、育たなかったと思う。大衆の娯楽である映画、その中で生き続けるアクション・ヒーローというものを演じられなかったんじゃないかな。ふつうの青年俳優で終わったろうね。

昔の自分の映画を見ると、なんていい加減な仕事をしているんだろうと思うようなところも確かにいっぱいありますよ。だけど、あの時には自分なりに一生懸命だったんだよね。アクションなんかでも吹き替えを使わずに全部自分でやっていたし、命がけの時もあった。だから、作品の特異性とか名作がどうとかいうのは、あくまでもプロデューサーや監督の感覚で選び製作するんであって、こっちは選ばれた商品として一生懸命にやれば、次の仕事がまた来ると、その当時はそう思っていたよね。

●旭氏自身の企画へのこだわり
後に旭さんは自分自身で企画を提案するようになった。さいとうたかを作品の「無用ノ介」や「ゴルゴ13」の劇画が好きだった旭さんは、日活に「ゴルゴ13」の映画化を提案した。まだ、ブームの前の話である。会社はさいとうプロに交渉の後、金がかかり過ぎるということでボツとなった。その後、コミック誌の劇画ブームが起こり、東映が『ゴルゴ13』(高倉健さん主演) を映画化。アクションの切れは小林旭氏以外に、ゴルゴ13にうってつけのキャストは居ない(当時は)。

 

<参考書籍:「日活 1954-1971 映像を創造する侍たち」ワイズ出版>


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