やはり、渡り鳥・流れ者・銀座旋風児を「カッコいい」と思う私は
 過去に出版された雑誌や書物からその魅力をピックアップし検証してみたいと思います。
 以下は、さまざまな書籍からの抜粋です。

■「渡り鳥」の誕生秘話


 歌謡映画『南国土佐を後にして』の大ヒットを受けて、撮影されたのが『ギターを持った渡り鳥』である。これは斎藤武市監督が『南国土佐を後にして』を撮り終えた後に小林旭の俳優としての才能が開花する確かな感触を得ていたからだ。石原裕次郎に次ぐ第二のスターが必要だった時期、<旭には、裕次郎には決して出せない新しい魅力がある>斎藤監督は、そう考えた。

 この企画は『嵐を呼ぶ友情』(1959)の井上梅次監督があたためていた作品である。音楽の造詣に深い監督ならではのギターを小道具のモチーフとしたアクション作品だ。一度は石原裕次郎主演で『嵐を呼ぶ男』(1958・正月映画)のヒットに続けとばかりにお盆興行として企画されたことがある。(右の画像参照)
 この井上監督は、ある事情から会社(日活)を辞めたいと考えていた。それを児井英生プロデューサーに相談した。一方で、児井プロデューサーもしばらくヒット作品に恵まれずにいた。そうした中で小林旭を売り出す方法として、主題歌を前面に出す手法を提案した。その作品として『ギターを持った渡り鳥』のプロットを紹介した。

「僕のシャシンって、ほとんど歌と映画の二つの歯車だったってこと忘れてたんです。旭に歌わせるんだ、彼は歌がうまいんだって・・・・」児井の目が、顔を上げた井上のこぼれるような笑顔とぶつかった。
「実はね児井さん。旭のシャシン三本連続でやって(*)、それがヒットしなくて、僕も考えたんですよ。
そして、次回作を『ギターを持った渡り鳥』にしようと思ってたんです。彼は大変器用ですからギターも大丈夫でしょう。それにアクションです。ストーリーも考えたんです。ふらっと渡り鳥みたいにやって来た男が、その土地の悪をやっつける。しかし、男は過去に過剰防衛でサツを辞めた人間で、殺された男の兄貴分に狙われている。そこでまたその土地を去る。美しい娘との淡い恋心を振りきって・・・そんな話で、主題歌をギターと旭の歌でふんだんに聴かせようって・・・」
(中略)
「ただ、辞めるのが早くなって旭では実現できないかも知れません。どこか、他の会社で別の役者を使ってやることになるでしょう」(管理人注:『東から来た男』1961・東宝/井上梅次監督/加山雄三・星由里子)

(*)『嵐を呼ぶ友情』『群衆の中の太陽』『東京の孤独』の井上監督作品

色の文字は「俺が最後の<プロデューサー>だ! 活動屋児井英生」永井健児著より引用


昭和33年(1958)お盆映画の広告(石原裕次郎・主演作品として)

■ロケーションの重要性

井上の退社と前後して、児井のプロデュースではない"アキラもの"が当たり始めていた。野口晴康監督の『銀座旋風児』シリーズであり、さらに大ヒットと飛ばした斎藤武市監督による『南国土佐を後にして』である。小林旭は、これでスターになったといってもいいほど受けた。(中略)
 児井が注目したのは、歌や旭の素質以上に、高知というローカルな土地のを斎藤がうまく、しかも派手に生かしていたことだった。
 (『渡り鳥』旭が、ギターを持ってふらっと新しい土地へやって来る。歌あり、アクションありの中へ民謡や祭りを入れ、地方色を豊かに演出していく・・・)。
 そう考えると彼の制作意欲は強く刺激され、たまらなくなってきた。(梅ちゃんに会おう。すぐ宝塚へ行こう・・・)、児井は井上に会うことを決めた。




こうして、児井プロデューサーは宝塚映画(東宝)に近い旅館で待つ井上監督に会い、『ギターを持った渡り鳥』のタイトルを譲り受けることになり、撮影の準備を進めるのだった。


 脚本は、舛田利雄監督の『夜霧の第二国道』、『羽田発7時50分』、『女を忘れろ』、『今日に生きる』などを書いた山崎巌に決まった。
 第一稿では、舞台は、三浦半島の浦賀港になっていた。鄙びた漁港の夕景をバックに、主人公滝伸次に扮する小林旭の歌う、主題曲『ギターを持った渡り鳥』が流れる。
(中略)先に、カメラマンの高村倉太郎、助監督の神代辰巳、製作進行の牛山陽一、美術の坂口玄武らスタッフ数人が、三浦半島ロケハンに出発した。旅館は、伊東の暖香園。(中略)
 斎藤が暖香園に着いたのは、夜中だった。
「どうだい、感じは」
「台本に書いてあるような鄙びた港なんて、どこにもないんですよ」
斎藤もうなずいた。
「ないだろう。俺も、あると思ってなかったよ。しかし、ないとなると、脚本書き直すか、ちがう場所に行くしかないな。どうだ、どこかあるか」
いろいろ意見が飛びかった。
なかなか適当な場所がない。
斎藤が、提案した。
「わかった。じゃ、この写真は、どこへ行ったら、一番できやすいかね」
助監督の神代が、いった。
「そりゃ、やっぱり北海道じゃないですか。それも『白い悪魔』の舞台の函館ですよ。あそこなら全部出来ますよ」


『白い悪魔』は、斎藤監督作品で小林旭も高校生役で出演している。


「よしっ、函館だ。それでいこう」
斎藤は、脚本を書いた山崎には無断で、場所の設定を三浦半島から函館に変えた。
(中略)
斎藤は、神代と製作進行の牛山陽一のふたりに命じた。
「きみらふたりは、会社には、内緒で、いまからすぐにでも、函館に飛べ」
「ロケハンですか」
「いや、きみらの頭には、どのシーンは、どのシーンはどこで撮ったらいいか、なんていうことは、入ってる。だから、先に行って、旅館や、その他画面に出てきそうな所を訪ねて、タイアップ取ってこい」
 斎藤には、第一稿の舞台が、なぜ三浦半島かの理由がわかっていた。撮影日数が、二十日しかない。だから、東京から近い三浦半島を選んだに違いない。そこなら、時間も金もかからない。上層部の考えそうなことだ」


色の文字部分は、「みんな日活アクションが好きだった」大下英治著より







浦賀港
(http://koia.web.fc2.com/uraga1.html)から拝借



1958年


ロケ地が函館ではなく、
三浦半島の浦賀港だったら、
どのような絵になっただろう。
決してヒットはしなかったのではないだろうか?

以後、つづけたいと思います。