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《1960年7月〜1961年6月配給収入ベスト5》
(封切り館のみ)
1位:『波濤を越える渡り鳥』 116,010
2位:『天下を取る』 88,980
3位:『闘牛に賭ける男』 79,550
4位:『喧嘩太郎』
78,050
5位:『大海原を行く渡り鳥』
73,470
(単位:千円)
*現在の価値に換算すると、これらの数字の約12〜13倍
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孤独なヒーローは、孤独なままだった…
『激流に生きる男』は当初、石原裕次郎の企画とされた。しかし、
スキー事故のために急遽、赤木圭一郎に代えて撮影に入った。
ゴーカート事故が起きたのは、その撮影中の休憩時間だった。
2度の事故を受けて『激流…』はオクラ入りとなった。
ダイヤモンドラインのローテーションは狂った。いきおい、アキラ
さんの出番が多くなる。もちろん、ジョーさん、エイメイさんも主
演作品が多くなる。そして、和田浩治さんも活躍した。
この時期、2月から8月(9月には裕次郎さん復帰)まで、アキラさ
んは7作品に出演。ほぼ毎月登場することから観客も食傷気味だっ
た。また、テレビの追い上げも激しく映画の観客人口を脅かしてい
た。(この頃、テレビ受信契約世帯が一気に増えるとともに、新東
宝がテレビ局に旧作を大量放出、業界では問題になった)
1961年8月公開の『高原児』9月公開の『大森林に向かって立つ』
(“流れ者”シリーズ第6作として企画された)が予測よりも不入
りだった。そして、その打開策としてアキラさんの新たなイメージ
づくりが相談された。その新たなイメージとは、これまでの無国籍
な正義感ではなく、スネに傷を持つ男のイメージだった。泥にまみ
れた男と純情可憐な少女の淡い恋という設定。こうしてできたのが
吉永小百合共演による『黒い傷あとのブルース』だった。
この映画を成功させるために、歌を先行させてヒットを飛ばし、話
題づくりにも努力した。もし、この映画の成功が無ければ、渡り鳥
シリーズは未完のままであったかも知れない。
やがて、渡り鳥シリーズの打ち切りが相談され、その頃ヒツトして
いた歌謡曲「北帰行」をモチーフに『渡り鳥北へ帰る』が企画され
た。公開は1962年1月3日の正月興行。そして同じ年のお盆興行で
『渡り鳥故郷へ帰る』が公開された。
その後、新たなシリーズ、大人になった渡り鳥は1964年の8月5日
『さすらいの賭博師(ギャンブラー)』となって帰ってきた。
参考文献:フイルムアート社
「活動屋 児井英生 俺が最後の<プロデューサー>だ!」永井健児著
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