〜渡り鳥誕生秘話〜
 
 「ギターを持った渡り鳥」は「シェーン」と「ローマの休日」と当時の流行歌があったから生まれた!
参考文献:文芸春秋「伝・日本映画の黄金時代」 児井英生著
参考文献:フイルムアート社「活動屋 児井英生 俺が最後の<プロデューサー>だ!」永井健児著

渡り鳥シリーズ全編のプロデューサーは児井英生氏。 新東宝から移籍し『嵐を呼ぶ男』(1958)で大ヒットをとばした氏は次々と石原裕次郎主演映画でヒットメーカーの立場をゆるぎないものとしていた。昭和33年には全国の映画館数が8,000館に近づき、観客数も11億人を越えた。 一方、井上梅次監督による『嵐を呼ぶ男』の姉妹編ともいうべき、『嵐を呼ぶ友情』の撮影に入った。これは、小林旭初主演の昭和34年の正月公開映画となる。日活側は第2の男として売り出すために、引き続いて『群集の中の太陽』(井上梅次監督、浅丘ルリ子共演)『俺は挑戦する』(松尾昭典監督、浅丘ルリ子共演)『二連銃の鉄』(阿部豊監督、岡田真澄共演)を4月までにつづけて公開したが、必ずしもヒットとはいえなかった。
すべての作品のプロデューサー児井氏は悩んだ。そんな矢先、井上梅次監督が日活を退社したいことを連絡してきた。そして、顔を合わせて話す内に、アキラの映画についての話になった。井上監督はすでに頭の中で次回作のアイディアを持っていた。タイトルも『ギターを持った渡り鳥』。その内容は、過剰防衛で警察を退職した主人公がギターをかかえて、各地をめぐり、その土地の悪玉をこらしめて去っていくというストーリー。その後、児井氏はタイトルを譲ってもらうために井上監督を訪ねた。 この時点で「渡り鳥」シリーズは産み落とされた。児井氏は、かつてのヒット映画「シェーン」の少年との別れ、「ローマの休日」の涙の別れ、そして『南国土佐を後にして』のローカル色。これらが一体となって『ギターを持った渡り鳥』が生まれた。

こうなることの背景には、児井氏がプロデュースした三橋美智也(当時の人気歌手で高音を魅力としていた)の『おんな船頭歌』があったこと。これが後のアキラ映画に欠かせない「主題歌・挿入歌」に結びついて行く。当時の歌謡界は、低音の魅力は、フランク永井に代表される都会的イメージ。高音の魅力は三橋美智也に代表される田舎的イメージと捉えるこことができる。つまり、石原裕次郎は本来持つ、はつらつとした都会的ムードと歌は低音。ひきかえ、小林旭は『南国土佐を後にして』で一躍人気が爆発した、 ローカルムードの魅力、庶民的な魅力(かつて、何かのインタビューに対して、小林旭は『ドブ板をまたいで育ったクチですから』と応えた)で、歌は頭から抜けるような高音(児井氏はアキラに三橋美智也の歌を歌わせたことがある)。

本編の制作の前に主題歌が先行して作られた。
西沢爽作詞 狛林正一作曲・編曲 「ギターを持った渡り鳥」

歌詞が先行して、イメージが固められて行った。

ちなみにシリーズ2作目も
西沢爽作詞 狛林正一作曲・編曲 「口笛が流れる港町」

「ギターを持った渡り鳥」は、1959年10月2週目封切り
「口笛が流れる港町」 は、1960年1月3日封切り