<おことわり>
以下の文章は「函館新聞」に2008年に掲載された記事です。以前に記者の方から記事のコピーを送って頂いたものです。それを許可を得ずにここに掲載します。従って掲載についての警告があれば削除致します。閲覧される方は、期間限定の可能性があることを前提にそれらをご留意のうえでご覧ください。
 渡り鳥シリーズ連載で5回分あります。1作目の『ギターを持った渡り鳥』最終作の『渡り鳥北へ帰る』の函館ロケで、携わられた方々の当時の思い出などを語られた内容です。
(※本文中の"写真"の表記は、新聞では掲載されていますが、ここでは写真を省いております)

 黒髪の眼鏡を掛けた男性が、七財橋(函館市豊川町)のたもとで小林旭に風船を渡している。男性は当時、市内西川町(現大手町)で小間物店を営んでいた故・K・Yさん(享年90)。この写真は「ギターを持った渡り鳥」の撮影風景だ。「子煩悩で優しい父。映画は良い思い出です」湯川町のK・Yさん(61)、Mさん(60)兄妹は懐かしそうに話す。
 与吉さんは東京生まれ。18歳で司法省に入省したが低給与のため退職し、徴兵後の1945年、妻のMKさんの故郷、函館で商売を始めた。
 出演依頼は知り合いの問屋を通じて受けた。店番はMさんに任せ、兄妹を連れて撮影に出かけた。現場は見物人で人だかりができていた。「おじさん、黄金飴(あめ)と風船ちょうだい」と小林旭。「はいはい、60円です・・・ありがとう」


小林旭に、手早く商品を渡して会釈するK・Yさん。「小林旭は背が高くて良い男だった。
全然オドオドしない父をすごいと思った」。12歳だったMさんは日活のスーパースターを相手に、自然な演技を見せる父の姿が目に焼き付いている。セットの風船作りを手伝ったYさんは当時13歳。「俳優さんは皆、アカ抜けてた」と振り返る。


 公開後、父と劇場に観に行った兄妹は20秒ほどのシーンに「出た、出た!」と大喜び。
 現場に来られなかった光子さんも、撮影後は小林旭ファンになり、テレビや映画を熱心に見るようになったという。
 洋裁系、手芸用品、日用雑貨…。戦後の貧しい時代、客の要望に合わせて何でも仕入れた店は、近所から"Kデパート"と呼ばれて頼りにされた。プラモデルや文房具類も扱い、子供のたまり場にもなつた。夜桜や運動会などにも出かけ、露天商としても稼ぎ、神山町でも数年経営していたが、73年ごろに閉店。その後、湯川町に一家で引っ越した。

 最近、K・Yさんは「渡り鳥」シリーズのDVDを購入した。十数年ぶりに目にした若き日の父の元気な姿に、涙があふれた。
 Mさんは、アルバムにあった撮影風景の写真を、いつも見えるようにテレビの上に飾った。兄妹にとって「ギターを持った渡り鳥」は、商売に明け暮れた父の人生の1ページが刻まれた特別な作品だ。「父さん、良かったね」"屋台のおじさん"としてフィルムに残る父を思い出す度、Mさんは遺影に向かってそっと話しかけている。
(新目七恵)


 マイトガイ・アキラこと小林旭と浅丘ルリ子主演で大ヒットした日活の渡り鳥シリーズ。1作目「ギターを持った渡り鳥」と8作目「北帰行より 渡り鳥北へ帰る」はいずれも道南が舞台だ。函館山、赤レンガ倉庫、ハリスト正教会…、函館の代表的な景色を詰め込んだ両作品は今でも映画としての新鮮さを失っていない。「硝子のジョニー」「居酒屋兆治」に続く「映画と私の物語」第3弾は、この渡り鳥シリーズを取り上げる。

<管理人注>
「函館新聞」2008年5月20日発行の内容をそのママ掲載しました。文中の写真は割愛しております。また、最後のカッコ内の名前は記述された記者さんのお名前です。シリーズ連載で5回掲載されました。
※実名の箇所は記号に変更しました(1/29)


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 「映画のじじいが来たぞー!」。全国でも珍しい「移動映画」を約40年間、道南で続けている函館市のN・Hさん(81)*の姿を見つけ、子どもたちが駆け寄ってくる。Nさんは「ギターを持った渡り鳥」のロケハン(撮影に適した場所を探す作業)に協力した思い出がある。「函館山やハリスト正教会…。一日かけていろいろ回ったなぁ」。古い映写機を積んだ年季の入ったワゴン車にもたれ、しゃがれた声で切り出した。

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後志管内余市町出身の西崎さんは子供のころ、「鞍馬天狗」をスクリーンで見て、映画の面白さに取りつかれた。両親に小遣いをもらい、週に3日は近くの劇場に通った。
 大人になっても映画熱は冷めず、30代の時に函館市内の映画館の宣伝係として働き、1967年からは八雲や福島など道南の地方の劇場4館を経営した。
 ロケハンを手伝ったのは宣伝係時代。当時の函館日活劇場の支配人の紹介で、東京から来た美術担当のスタッフと一緒に車で回った。
 「宍戸錠と決闘するシーンで使えそうな場所はないか」「ロマンチックな風景を」ー。スタッフの注文に応じて、七飯町の駒ヶ岳や函館市豊川町の七財橋、市内元町の函館ハリスト正教会などを紹介した。
 豊かな海と山、教会や寺院が建ち並ぶ坂道。異国情緒ある函館の街並みに、スタッフが「いい場所で助かる」と喜んだ様子を覚えている。「(スタッフは)年も自分と近く、話しやすい人で楽しかったな」。教えた場所はロケ地として採用され、いつまでも観客の心に残る映画の風景になった。

 「移動映画」は劇場経営を始めたころ、函館近郊の映画館がバタバタと閉館する状況を心配して始めた。発想のヒントは昔好きだった自転車の紙芝居屋。中古の映写機など機材一式を車に積み込み、妻と二人三脚でせたな町や後志管内古平町など、地方の町々に毎日のように出掛けた。
 03年に妻を亡くしてからは会場手配から集客活動、集金を1人でこなす。最近は「ドラえもん」や「ワンピース」など小学校低学年向けのアニメ映画が中心で、少ない時は数人しか集まらない日もある。それでも、「死ぬまで止めないよ」とさらり。
 上映が始まると、子供たちは背筋をピッと伸ばし、スクリーンを食い入るように見詰める。「その真剣な様子が好きなんだ」。幼いころに受けた映画館での感動。それを1人でも多くの人に伝えようときょうも車を走らせている。
(新目七恵)

ハリストス正教会の前で

 七飯町大沼のほとり。草木が無雑作に生える荒れ地に、かつて地元の夢と希望が詰まった宿泊施設「大沼ヘルスセンター」はあった。
 「(センターの)大浴場での撮影はファンが取り巻いてすごかった」。幼なじみの大沼観光協会会長、Hさん(56)と共に跡地を訪れた同町のレストラン「ランバーハウス」経営、Tさん(52)は、「渡り鳥」シリーズ第8作「北帰行より 渡り鳥北へ帰る」の撮影をこう振り返る。

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 大沼を"第二の軽井沢"にー。1958年の国定公園指定で、大沼観光は一気に地域の注目を集めた。地元経済界の後押しもあり、同センターは観光事業の中核施設に位置づけられ、建設費1億5000万円を投じて61年に開業した。「北帰行より」の撮影はオープンの翌年。真新しい施設の雰囲気が今でもフィルムに残っている。
 9歳だったHさんは、父の故・Yさんを通じて、スタッフから子役のエキストラ出演を依頼された。「おじさん大丈夫?」と小林旭に言うセリフまで用意され、練習した覚えもある。
 ところが撮影当日、現場に現れたのは当時5歳のTさんだった。撮影が学校の授業時間と重なることを知ったYさんが息子の出演を断り、「代役」に近所に住むTさんの手を引いたのだ。
 「何だかよく分からなかったけど、(エキストラの)知らないおじさんと一緒にジュースとアイスを食べた」とTさん。事情を飲み込めぬまま、小林旭の左後ろのテーブルに座っている様子が一瞬スクリーンに映る。
 「あれは俺のはずだったんだぞ!」ー。家族でこの映画を観る度に、Hさんは決まってそう冗談まじりに笑い飛ばす。

 同センターの支配人を務めた同町大沼のMさん(77)は撮影時、見物人の整理係として駆り出された。控え室から出てきた小林旭の颯爽(さっそう)とした姿は忘れられない。「撮影はあっという間。職場がロケ地になったのがうれしかった」と目を細める。同センターは観光客や地元民から親しまれたが、建物の老朽化などで92年、解体を余儀なくされた。跡地にはセンター前のロータリーの痕地があるだけだ。

 Tさんは大沼の湖畔に店を構え、大沼牛のこだわりステーキを提供している。Hさんは今、大沼が誕生の地とされるヒット曲「千の風になって」での地域活性化に取り組む。一度は上京し、それぞれの事情から故郷に戻った2人の胸には、撮影当時のにぎわいが、せつないほど強く残っている。
(新目七恵)

 「北帰行より 渡り鳥北へ帰る」のクライマックス。小林旭演じる伸次が、函館空港から飛び立つ飛行機で逃げようとする悪党と格闘するシーンに、本業の警察官役で参加したのが函館市のNKさん(81)だ。「俳優気分で参加した。スクリーンに映った時はうれしかったね」。表情がほころぶ。

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 函館で生まれ、海軍に所属し太平洋に参加した。終戦後に帰郷し、「市民を守る仕事を」と22歳で函館市警入りした。6年ほどの交番勤務の後、パトカーに乗る無線自動車警ら係に配属され、函館方面で初めて導入された黒白ツートンのセダン型車両に乗った。当時パトカーはジープ型が主流で、セダン型は仲間から「あこがれの的」だったという。
 エキストラの要請は市観光課を通じて受けた。撮影は夜。パトカーの助手席に乗った小林旭が、さっと降りて函館空港入口へ走っていく演技を何度も繰り返した様子が目に焼き付いている。
 「アキラは背が高く、映画のイメージそのままだった。白いセーター姿が恰好良かったことが、印象に強く残っている」。現場はクライマックスならではの緊張感があり、小林旭とは結局ひと言も言葉を交わせないままだった。それでも、十数センチの近さで大スターと共演した経験は今でも大切な思い出だ。
 公開時、作品は職場でも話題になり、「周囲から羨望(せんぼう)の眼差しで見られたよ」と笑う。
 その後、野島さんは交通違反者即決裁判担当として函館の裁判所などで勤務し、58歳で定年退職した。現在も函館防犯協会の事務局を務め、地域の安全確保に励んでいる。多忙な日々の中でも、小林旭の活躍はチェックし続けてきたという。

 約37年間の警察官人生で思い出深いのは交番、パトカー勤務時代。当時、函館は北洋漁業の基地として栄え、乗組員の男たちが毎晩のように大門のキャバレーで疲れを癒し、にぎやかに飲んで騒いでいた。当然酔っ払いのいざこざも多く、その分野島さんら警察官の出動も増えた。「絶えずけんかがあるくらい活気があったっていうことかな」と振り返る。
 「ギターを持った渡り鳥」「北帰行より」でも、函館の夜のシーンでは、ネオンがまぶしい繁華街が決まって登場する。映画も街も元気だった時代の勢いが伝わってくる。
(新目七恵)




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 閉館の日、200席余の座席はほぼ満席だった。皆、感慨深げに銀幕を見詰めていた。
 赤い夕陽よ 燃えおちて 海を流れて どこへゆく…
 小林旭の歌声が響き、スクリーンに昔の函館の街並みが映し出される。市内松風町にあった「函館映劇」が最後の上映に選んだのは「ギターを持った渡り鳥」だった。
 「これで終わりか…、なんて思いながらフィルムをまわした」。函館映劇の映写技師だった市内に住むSHさん(50)は"最後の日"をしみじみと振り返る。2004年3月21日、まだ肌寒い初春の日だった。
 函館映劇は「大門日活館」から1955年に改称して開館した。84年に全面改装し、縦5.5メートル、横11メートルの大型スクリーンが売りだった。
 76年から函館映劇で働いていたOSさん(64)は、映画最盛期のころを鮮明に覚えている。「普段は洋画、夏休みや冬休みは子供向けの映画が人気で、朝から映画館前に人が並んだ。休む暇なんてなかった」という。






 カメラ関係の仕事に就いていた斎藤さんは、新聞広告の「映写技師募集」の文字に引かれて91年なーに転職した。入ってみると、映写技師は自分と技師長の2人だけ。機械の扱いをゼロから学び、時間交代で勤務に当たった。


「『ボディガード』は半年ものロングラン上映、『ハリーポッター』は立ち見や入場制限も出るほど人気だった」。今では全てが懐かしい風景になった。


函館映劇は市内でも古いなじみの映画館として親しまれていたが、業績不振や土地の賃貸契約が切れることなどから閉館が決定した。赤やオレンジの派手な外観に改装した数年後だっただけに、驚き、惜しむ声も多かった。

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 最後の2日間に企画した「さよなら上映会」のラインナップは「飢餓海峡」(64年、東映)「赤いハンカチ」(64年、日活)、そして「ギターを持った渡り鳥」。往年の映画ファンや市民サービスにと函館ゆかりの作品を集めた。年配客も多く訪れた。
 消えゆく劇場で、往年の映画スターと、活気にあふれた故郷のかつての情景を見ながら、観客は何を思ったのだろう。
 小林旭の歌は続く。
 ギター抱えて あてもなく 夜にまぎれて 消えてゆく 俺と似てるよ 赤い夕陽
 「随分人通りも少なくなった映画館跡地で、HさんとSさんは寂しげな表情を見せた。
(新目七恵)





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