「シネマぱらだいす」の小林旭・特別号からアキラさんとゆかりのある方々へのインタビューを掲載します。(1978年頃)
<出典:シネマぱらだいす

あの日、あの頃…





「最高のエンターティナーだ」 宍戸 錠


 映画は小林旭を主役にしなくちゃ!
小林旭は、これから咲くよ。昔の名前で出ていますっていうけど。「仁義なき戦い・頂上作戦」でのアキラは菅原文太がぶっ飛ぶくらいだったもの。菅原文太が悪いということじゃないけど。小林旭は主役がやれる仁だということなのね。これは彼の歩んできた道であるとか、生活環境であるとか、そういうもんがすべてににじみ出たとき、ポッと写るもの—演技じゃなくて、彼の実在が、彼の演じているものに結びついていく—それが俳優として一番大事なことですね。その意味において、その量においてやっぱり小林旭は菅原文太より上ということですね。菅原文太は一番危ない役者じゃないかといわれているけど、七十年代の第一人者と言われているのは、見る方もよくないというか……。


 渡り鳥の小林旭? どうにもならないほどエラそうにしてね。おれこそスターだという感じで。(笑)ニューフェイスで入ってきたときからウソつきでね。百メートルを十・二秒で走ったとか。講道館の柔道四段とか。これは講道館で調べればわかるけど。(笑)ラスベガスで生まれたとか……。一番、笑ったのは、ニューフェイスで入ってきたとき、水着の写真を寒いときに撮らされたわけ。新人はみんなこれをやらされる。江ノ島に行って、それで帰ってきて、会社のバスがみんなの家まで送ってくれるわけ。それで、小林旭がここで止めてくれという。バァッと大きな大邸宅の前なんですよね。凄い家に住んでるな。大したもんだなぁ。ところが、その大邸宅から三軒くらい先の小っちゃな家が彼の家だったわけ。(笑)これが彼の一番いいとこ。


 ニューフェイスに入ると大部屋で仕出しを一年くらいやらされるわけ。一日、二百円。ちょっと慣れてくるとみんな大部屋で将棋をしたりしている人が多いけど、そこへ助監督が大声で「この野郎!馬鹿野郎!何をやってるんだ。みんなが待ってるんだ。早く来い!」よ呼びに来た。ところがアキラは「おい、そんな言い方していいのか?いまはニューフェイスかも知れないぞ。お前だって助監督だろ。お前だって監督になるんだろう。そんな言い方をして……俺はスターになるんだよ。お前、その時、使ってやらないぞ」って、平気でいったもんね。これはいくなあと思ったねえ。いったねぇ。いまは何億かの赤字があるけど……。(笑)
 だから、小林旭は会社では四面楚歌みたいになったね。あのエラそうにバカめ、と。俺は、そういう彼が好きだった。とても俺らにはできないことを平気でやってね。そのギンギンがね。やっぱりスターだね。


 四国ロケのとき、神戸から船に乗って船上で撮影があるのだけど、彼は神戸の金髪がよくてよくてといって……それで何時までには戻って来るからと。ところが全然帰ってこない。船の会社とタイアップだから撮影しなくちゃいけないのに主役がいない。撮影のカッコだけしてみんなで……。(笑)帰りに撮影しましたけどね。俺だけは彼の居所を知っているわけ。そこにもいないときもあるけど。いまだから笑っていえるけど、そのときは大変だったからね。主役の小林旭がいないということは……。撮影所長が飛んで来たり、みんな右往左往して。でも、そんなことできるというのはえらいね。かといってそういう奴はテレビで生きていけないな。難しいな。でも、そいうう奴もテレビで売れるようになってきてるけど。ピラニア軍団とかもね。


 アキラは「ジョーさん」って俺に一目置いてくれてるみたいだね。よそでは「ジョーは俺が売り出してやったんだ」といってるかも知れないけど(笑)俺のいうことを一番聞いてくれるよ。小林旭は本当のエンタティナーだな。もう一度、二人でアクション映画をやってみたい。いや、また、きっと作りますよ。  
 <3月6日談> ※1978年当時の日付



「無国籍がサマになる男」 神代辰巳

「渡り鳥」シリーズはほとんど助監督で斎藤(武市)組についてました。小林旭はスターだったですね。いろんなところへろけに行ったけど、どこでももみくちゃで。生イキだとか何とかいわれるけど、スターはみんな少なからずそうですよ。ニクめない人で、スターらしいスターですよね。当時、一本の映画を二十三日間くらいで撮ってましたから、仕事はきつかったですね。「渡り鳥」は必ず地元のお祭りが出てくるわけで、それを再現させるんですからね。あのころは、いろんなところからロケをやってくれという申込があって、タイアップで撮影してましたから。ボクは監督のかわりにロケ・ハンに行ったりすることが多かった。アキラはよくやってましたね。いろんなことを研究して。


 「渡り鳥」の後半になってくると、ルリ子が非常にまめまめしくアキラの面倒をみているようでした。


 ストーリーがみんないっしょだったし、仕事としてはあまり面白くなかったですよ。さぼってマージャンをやるとか……。(笑)北海道から九州まで行きましたから、その点は楽しかったけど……。野口博さんの「さすらい」にもつきましたね。


 アキラが西部のヒーローのようなカッコウでセットに来るわけですよ。「そんなの恥ずかしいからやめようよ」っていってもアキラはきかないわけ。無国籍の初めの頃は作る側にテレがあって、銀座の真ん中みたいなところでピストルをぶっ放すのはリアリティーがないからと、場所を船の中にしたり。少しでもリアルにやりたいと。ところが何本か作るうちに、どうせやるなら徹底して無国籍なものにしようということになって……。


 「高校四年」という作品のとき、アキラは、大部屋だったんだけど、ニューフェイスで入ってきたばかりで、まあわりの先輩がいじめるんですよね、アキラを。ところが、彼は平気でケンカしてましたね。度胸がいいというか、こいつはスターになるんじゃないかと思いましたよ。危ないことも平気でやるでしょ。役者ですよね、アキラは。


 とにかく毎回の話が同じなのでホンができてないうちからロケに行ってキャメラを回したりすることも多かったし、いろいろ大変だったけど。助監督はスターやスタッフ、監督のみんなからいじめられますからね。こんなみじめな商売はないですよ。そのかわり、監督になると、反対にこちらがいじめてますけどもね……。(笑)
<3月15日、日活撮影所で> ※1978年当時の日付

「やんちゃなアキラさん」 浅丘ルリ子


 懐かしいですね。「渡り鳥」シリーズの頃は楽しかったですね。会社の路線にノっかってやってましたけど、内容はいつも同じようなもので楽しいとはいえなかったですが…。
仕事そのものは凄く楽しかったんですよ。役づくりなんかも当時はあんまり考えなかったですね。ただ消化すればいいみたいな……。(笑)
実際、そうなんですよ。カケ持ち出演も多かったし、小林旭さんのほか裕次郎さん、赤木圭一郎さんの作品とか……。ずいぶんやりましたね。ロケーションが多くてよく地方に行きましたね。でも、あの頃は、ロケ現場と旅館を往復するだけで、どこへ行くということもなかったんですよ。ゆっくり見学なんかできなくて……ただただ、めまぐるしくやってたというだけで……。
 小林旭さんとは最近お会いしてないんですけど、あんまり変わられてないようですね。昔からやんちゃな人でしたね。素朴な魅力がありましたからね。私も映画をやりたいですね。テレビ女優と言われるより、私はっぱり映画女優なんだと今でも思ってますし。年にテレビを一本、映画を一本といったペースですね。いまのところ。いろんな話がくるのですが、やりたいものがなくて。「執炎」「憎いあんちくしょう」「愛の渇き」なんかいまもう一度みて見たいわ。小林旭さんとは二十三本くらいあるのかな。裕次郎さんと同じくらいおつきあいしてますね。、もう一度、またいっしょに映画をやれる日がくるかもしれませんね。 
<3月17日、東京・渋谷スタジオで> ※1978年当時の日付

「メカニックの男」 長谷部安春


「縄張はもらった」のときに考えたんですけど。メカニックになれる人ですね。 ちょうど小林旭が売れ始めた頃に助監督になって、井上梅次組によくついていましたから、助監督時代のつきあいも長かったですね。向こう気が強いというのが小林旭が小林旭たるユエンで、だからしょっちゅうモメてたんじゃないかな。(笑)ボクもアクションをやりたいと思ってたし、アクション映画についてあいつもえらく熱心だったですね。「渡り鳥」が終わってあいつの方向が定まらない頃に「俺にさわると危ないぜ」をやったのかな。助監督と役者というよ、仲間みたいなもので。「早く監督にならなきゃこんなことできないぞ」とかいわれて。(笑)アキラで新しいことできたらなと思ってやったけど、会社には喜ばれなかったですね。「俺にさわると危ないぜ」は007調のね……。アクション・スターだけども、ノン・キャラクターなところもあるような気がしますね。


 「縄張はもらった」のとき、ああいううふうになれる役者じゃないと思ってたけど、鶴田、高倉全盛時で、会社としてはそれに匹敵し得るものという要求があったんです。日活では「男の紋章」があったけど、こっちは生の存在感のあるやつという感じで。東映で「組織暴力」があったですね。「縄張はもらった」は本人もノリましてね。その根性が凄い役者ですよ。全部、望遠でやったから、セットなんかライトをガンガンにあてるわけで、必死でやってましたよ。


 ボクは、あいつの家に入りびたったりしてましたから。現場で開き直って話をすることもなかったですね。(笑)日常のつづきみたいで……。ここのところごぶさたしてるけど。自分の家にいるよりアキラの家にいる方が長かったんじゃないかな。(笑)ボクの仕事は回転してた方じゃないから、あいつが帰ってきたら「お帰えんなさい」とか。(笑)


 映画界には少ない個性の持ち主で、それが生イキだとか誤解されることもあるけど、自分のもっている根性をあまり外に出さないようにしている感じで、そういう根性が人並み以上じゃないですか。それがダイレクトに伝わってこないところでね。そういう意味では頭のいい役者ですね。


 「爆弾男といわれるあいつ」のとき「やめとけ!」というのにダムの上のクレーンにぶらさがるんですよね。命綱もいらないと。こちらは撮りやすいけども、恐かったですね。三十メートルくらいあったから落ちたら死にますよね。ただ、逆にあいつの場合、安心してるんだけど、自分で自信があることしか「やる」と言わないですね。ボクらが「ヤバいな」と思うことでもあいつが自信があれば「やる」というんですね。撮影所の食堂の上でヘリコプターの撮影をやったとき、野村孝さんの「都会の空の用心棒」だったか。へりからヘリへのり移るシーンを撮ってて、ひとつ狂えば大変なんだけど、そのへん計算というか、動物的にうまかったですね。見事なカンですよ。


 井田探さんの写真のときに、アキラが死んだんじゃないかということがありましたね。死んでたら俺が殺しちゃったんじゃないかと。大オープンを作って、やぐらの上にアキラが逃げて、下から火をつけられる。そのやぐらから電線を伝って逃げて小屋の上に落ちて小屋がぶっつぶれるという凄い仕掛けだったけど、それをワン・カットでやるわけです。キャメラ三台でん狙って。ボクがそのやぐらに火がついたとき、やぐらを倒す合図を出すことになってたんです。ガソリンをまいて火をつけるんだけど、このガソリンの量が多すぎて、本番のときにアキラの姿が見えなくなって。炎に包まれて。アキラが電線につかまったらやぐらを倒すということになってたけど、全然姿が見えなくて、いやー、やぐらに乗っているうちに倒すわけにはいかないし、電線につかまったとしても、炎が大きくて逃げられないし……恐かったな。もう、死んじゃったと思ったですね。こっちも怒鳴ったし、向こうも怒鳴ったらしいけど声は聞こえなくて。結局、頭の後ろのへんをヤケドしてましたね。もう、お前のそういう仕事はイヤだと。本人は自信があったというけど、カスカスのタイミングですね。


 でも、またアキラといっしょに仕事したいですね。ギャング物なんかをね。気のきたギャング物で、チャンドラーぐらいのを。


 歌手・小林旭はあんまり好きじゃないけども「さすらい」はいい曲だったですね。
 アキラが東映に出たりするのを見ると、何となく外様に見えますね。やくざ映画が多いけど、アキラはやくざ映画で終わる役者じゃないと思う。今のままではもったいない気がしますね。初期のころの鈴木清順さんの「踏みはずした春」はよかったですよ。ナイーブな演技で。


 「さらば愛しき女よ」のロバート・ミッチャムが立ってるだけで、ダンディズムだと思いますね。「野良猫ロック」をやってるころアキラから「いつまで子供相手にやってんだい」っていわれましたよ。(笑)
<3月15日、日活撮影所で> ※1978年当時の日付

「渡り鳥は夢見鳥」 星野哲郎


 アキラさんとの付きあいは古いですね。映画でスターのころ、ボクもアキラさんの曲を10曲ぐらい書いてるけども、売れなかったというか……。(笑)ボクはまだ無名で、肩をいからしてしていますけど、曲のことやなんかでは作る側にまかせてくれるから有り難いですね。それで曲を渡すと「有り難う」といってくれるんですよ。昔のアキラ節よりいまの方がつかれなくなったといいますか、うまくなってますね。音域も広いしね。


 彼は“夢見鳥”なんですよ。渡り鳥というよりは。それで“童児”なんですね。つけいる余地があるといいますか、警戒しなくていいから付きあいやすいんですね。三年前に作った「昔の名前で出ています」が最近、売れ出しているんですよね。あの歌は、昔のホステスさんから電話がありましてね、それで、何処で会った女の人かわからなくて、名前をきくと、以前の名前で出てるっていうわけです。これだ、と思いまして。おかげさまでみなさんに唄っていただいて。うれしいですね。売れるというのは。アキラさんのように強いイメージの男が、弱い女の歌を唄うのがいいのでしょうね。うまそうにしないで唄うところがまたいいですね。


 六月ごろにボクの詩で新曲を予定しているんです。今度はド艶歌で。俺とお前といった夫婦愛、恋人愛みたいなものがテーマになった曲なんですが。そして九月ごろに「昔の名前で出ています」の姉妹盤として「私の名前が変わります」というのを出します。


 一晩で十二曲のLPをレコーディングしたことがあるけど、とにかく、根性のある人で文句ひとついわずやってくれましたね。


 アキラさんがいま売れてるのは  めぐってきた運命ですよ。春が来たということ。これは。人間誰しもそうですが、まわり持ちなんですよね。
<3月15日、東京・クラウンレコード本社にて> ※1978年当時の日付

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